かぼちゃ会報43

第5回

実篤 と 岸田劉生


ムンク絵.jpgムンク「叫び」1863年 北欧ノルウェーの著名な画家ムンク(1863-1944)という人がいた。多分皆さんもよく知っている、あの「叫び」を描いた人。昨年2013年が生誕150年ということで、世界中のあちこちで各種イベントが開催され、何人の人が《両手を耳にあてて、口を大きく縦に開いて》あの絵を真似したでしょうか。またこの年NYのオークションで、パステル画の「叫び」が史上最高額の約100億円で落札されたことも耳新しい。
 ムンク自身、精神を病み入院生活をした経験がある。ノルウェー・オスロのフィヨルドの海岸を望む坂道で、ある夕刻、海にたなびく雲が突然真っ赤に燃えたように見え、彼の耳にだけ聞こえた「叫びに」両手で耳をふさいだと、彼は書いている。絵に描かれた二人の友人には聞こえないあの「叫び」を。この経験を彼は、少なくとも5枚は油彩画やパステル画などに残している。 

**ちなみにムンクが日本に紹介されたのは、1912年(明治45年)4月号の雑誌『白樺』に、武者小路実篤が記事を書いたのが初めて。**

ゴッホ自画像.jpg耳切り取り事件後の自画像 あの印象派の巨匠ゴッホ(1853~1890)が、南仏プロバンスでゴーギャンと共同生活(1888)をした末に、言い争いの結果、剃刀でゴッホ自身が耳を切り落としてしまったという事件があった。彼も晩年は精神病院に入り、病院で夜空の星月と糸杉を見上げて、有名な絵「星月夜」を残している。一年の入院後転地した彼は発作もなく、精力的に2か月に80点の作品を書き上げた。しかし一方、自分が弟テオ一家の負担になっている等の心労からピストル自殺をはかったが失敗、間もなくその傷がもとで37歳のゴッホ糸杉.jpgゴッホ「星月夜」1889 生涯を閉じた。

 ムンクやゴッホなどの画家や、芥川・太宰など作家や音楽家その他の芸術家に限らず、世に「天才」と言われる人々には他の人にはない素晴らしい特質が見られると同時に、なかには発達に偏りがあったり、うつ病や双極性障害に悩んだり、統合失調症におびえる人も多かったそうである。

 今回話題にする岸田劉生もその一人でした。叔母・兄ほか家族の中に精神を病み、一生を格子のはまった座敷で暮らした人がいて、劉生自身もいつかは「自分も気が違うのではないか?」と常に恐れていました。そんな岸田がゴッホ自身の生き様と画風に引き寄せられたのも、「気が違う」ことへの恐れや不安と無縁ではなかったそうだ。性格的にも激しい人で、喧嘩早い。調子の良い時は饒舌で人の意見を聞かず自己の主張を押し通す、一方意気消沈している期間も度々で実篤は「描けない劉生が出家しようとするのを停めるのが大変だった」と書いています。(注1、注2)

 岸田劉生といえばあの有名な「麗子像」や「代々木の切通し道」(重要文化財)を思劉生麗子像.jpg岸田劉生「麗子像」1921東京国立博物館 重文い浮かべる人も多いと思います。彼の父親岸田吟香という人は、ヘボン式ローマ字で有名なジェームス・カーティス・ヘボン(幕末に来日。米国の宣教師で、医療、教育に足跡を残した)を手伝って、「和英語林集成」という日本語・英語の辞書を出版した文化人であり、ヘボンに伝授された目薬の製造販売で事業家としても成功をおさめた、明治の先駆者の一人という人。目薬の他にも、薬用石鹸や、咳止め飴(後日“浅田飴”となる)でも成功した。その7男7女の9番目の四男坊だったが、若い時から画が好きで画家を目指していた。
 画家・岸田劉生は6歳年上の武者小路実篤を兄とも慕い、実篤も生涯にわたり劉生を友とも同志とも思い続けました。劉生は雑誌「白樺」で紹介された印象派の絵画に衝撃を受けたと後に回想しています。劉生が17歳(1908年・明治41年)で画家を志して、東京師範の付属中学を中退して赤坂溜池の白馬会絵画研究所(黒田清輝の画塾)に入り、1909年(M42)には文展に2作品が入選。そのころ頃、最初は黒田流の画風だったのが、1911年の「白樺」第二巻三号ルノアールや同年のゴッホ特集などを初めて買い大興奮したといいます。特にゴッホへの傾倒ぶりはすざましかった。劉生最初の個展が、高村光太郎経営の画廊で開催された時も、「どの作品もあまりにゴッホ的」と評判が良くなかった。(注2)その後、岸田は何回も画風を変え、模索しつつ独自の風景画・人物画を確立してゆきます。

 以下、実篤の「岸田劉生」や娘・麗子の「父 岸田劉生」等の記述からの抜粋をまじえ、主に実篤との交流を記す・・・・

 「岸田劉生と実篤が初めて逢ったのは、麻布の柳宗悦(白樺同人・後に「民芸」運動を創始した思想家)の家だった。・・・丸善を通して注文した泰西名画が届いたから見に来ないかというので、僕(実篤)は大急ぎで出かけてみたら、柳の室には三人の来客が既に来て居て、四人で複製を見ながら興奮して饒舌っていた。・・・写真はセザンヌ、ゴッホ、ゴウガン、マチスなぞだったと思う。・・・三人の来客は皆若く画をかいている人々で、岸田と清宮彬と岡本帰一だった。そのとき僕は28、柳は24、岸田は22だったとう。・・それは明治45年の2、3月の話かと思う。」(注2)
その後すぐに岸田は実篤の家に頻繁に通うようになり、(実篤は)「二人だけで逢ったが、僕は気楽に饒舌れた。岸田は珍しく饒舌り甲斐のある男だっだ。心と心がふれるような感じで、僕のいうことは少しもはみ出さずに、全部受け入れられた。・・・僕は一度で岸田が好きになった。」(注2)
 ただ、「岸田に好意を持ったのは、(最初は)白樺では僕だけで、その僕も岸田の画には何の知識もなかったのだ。・・・以前は黒田さんの真似で、次には最初の個展でもゴッホの影響を受けすぎているとの世評でもあった。しかし岸田に対する実篤の友情は少しも変わらなかったし、岸田も相変わらず(実篤宅に)よく来ていた。岸田の画を最初に認めたのは、白樺では長与善郎だった。フューザン会の2回目の展覧会の時で、長与が感心したと伝えたら岸田も喜んだ。」
「岸田はよく腹を立てたが、同時によく仕事をした。・・・一作一作と自信を増し、同時に他人の仕事を軽蔑する気になった・・・西洋の偉い画家の物差しで、当時の油画を批評したら大がいの人の仕事が下らなく見えるのは当然であった。
 ・・・・・たしかに1913年彼の23歳の年は彼がものになった年として記憶されていい年である。バーナード・リーチの肖像ほか友人の顔を沢山描いている。色は美しいと言えないものもあるが、しかし実によく見て、リアルに描いてある。・・・岸田が「切通し」の画をかいている時、画をかくのを見ながらよく話したことを覚えている。あの電信柱の影なぞもよく覚えている。あの景色も、その道路の内からもり上がる力は不思議な力である。
・・・岸田がデュラーを好きになった時分から、岸田は僕から独立したと思っている。勿論岸田は一人で道を切り開いてきた。ゴッホの影響はいつの間にかなくなり、自分で見た通りをかく、本当の写実の道を歩いていた。・・・・岸田がデュラーばりの画を描けば、世間が悪口を言うことは、岸田は百も承知なのだ。しかし自分でそれが本当と思える以上、その道を歩くより仕方がない。だから世間からほめられたい為に流行を追う人とは、まるで行き方が違うのだ。

 ・・・・草土社を彼が同志と始めた。草土社風は好むと好まざるを問わず、日本画壇に大きな影響を与えた。草土社では彼は独裁者であって、誰も彼の言うことに反対できなかった。木村荘八・椿貞雄・中川一政など皆自己を持っていたが、岸田が断定的なものの言い方をすれば、反対できなかった。細部にこだわって描写する、その草土社風から平気で抜け出したのも岸田である。
 ・・・・フュウザン会退会の事情、春陽会から退会を強要させられた理由も、岸田の喧嘩速さ、横暴な発言など岸田に非がある点も多い。

 その後日本画壇で大家と言われるようになったが、関東大震災後を機に東京を離れ京都に住んだ。この時代、岸田は茶屋通いの遊興にふけり、酒浸りの生活に友人たちからも顰蹙を買っていたし、借金取りに追われる生活になった。酒が徐々に身体をむしばんでいた。
酒を飲んであまり描かなかった岸田を、実篤はやがて自分を取り戻して帰ってくると待つていた。しかし39歳のとき、金策のため満州に行き肖像画を描いたのだが、夢破れて帰国し家族のもとに戻る途中、徳山で客死してしまう。
 でも36歳以降の最晩年に、岸田の最高に近い傑作があると実篤はいう。「舞妓の里代」を描いた油絵や、「冬瓜」の画も傑作だし、16歳の麗子像2点も素晴らしい。
 宮崎県日向に「新しき村」を創設して日向の村で実篤が暮らした時も、震災後に実篤が東京に帰ってからも、岸田との手紙のやり取り、親交は続いた。ただ「道楽の峠を越してゆくところまで行けば帰ってくる」と信じていた実篤は、「また仕事に乗り気になりだした時に身体が参ってしまったことは実に残念なことだ」と書き残した。(注3)
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 精神を病んだ人が、その人なりに幸福に暮らせるのか❓
ムンクやゴッホの病室の扉にも鍵がかけられたかもしれない。部屋には鉄格子があったのか?彼らは窓から空を見上げ何を思ったのだろうか?庭に出て糸杉や花を写生もしたし、自分に迫りくる「不安」を画に表した。ムンクやゴッホには描く絵があった。本人にとって幸福であったかはわからないが、後世に残る絵に打ち込める瞬間があったことは確かだろう。

 岸田劉生の兄(長兄)は殆ど生まれながら精神を病んでいたらしい。銀座で目薬などを製造販売し羽振りが良かった父・岸田吟香の庇護のもと、また父の死後は父の仕事を継いだ次兄に守られ過ごしたが、31歳の若さで亡くなった。その生活の詳細は分からないが、店の2階にあった、母の居間の隣の座敷の格子から家並みの隙間に寂しく視線を向け、銀座の賑わいを見ていたのだろうか?
 また結婚後に発病し、銀座の家に戻り居候となった劉生の母方の叔母がいた。劉生の幼い頃で、やはりまだ幼かった姉や妹など女児に囃し立てられたとき、「お前らそれでも女か!」と悔しがったという。彼女もそこそこの生活自立はできたが、所謂「のろま」といわれ、幼児にも馬鹿にされた。でもこまごました裁縫・小物作りなど趣味はあったらしい。
 こうした兄や叔母をみて育った劉生は、いつかは自分も発症するのではないかとおびえ続け、その不安からの逃避で女や酒に浸ったともいわれる。
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 我が家の孫息子は、9歳にしてまだ発語がない。ほぼ全介助が必要。最近は、歩行はかなりしっかりしてきて、先日もボランティアさんに手をつないで頂いて、高尾山の一号路登頂に挑戦した。ほんの一部だけバギーの世話になったが、頂上までほぼ歩けた。少しずつ成長しいろんなことが出来る様になったことは喜ばしい。だが、背が伸びてどこにでも手が届く、食卓やピアノの上にでも手が届くし上ってしまう。届けばそこにある何でも落として割ったり壊したり・・・だんだん目が離せなくなってきた。いきおい、食卓に食事を並べたとき、妹が机で宿題をやっている時、彼を椅子に拘束してしまったりする時間がふえてしまう。安全な部屋に鍵をかけて入っていてもらうことも出てくる。今はリビングとキッチンの境目にベビー・フェンスをおいている。彼がこれを開ける様になるのも時間の問題か?すでにリビングから和室に行く‟ふすま扉”や、ベランダに出る網戸などの横引き戸は時に器用に開けて見せる。フェンスが閉じられても、ふすまを閉められても彼は特に感情をあらわすことなく、淡々としている。向きを変えて次に関心持てたものに向かうだけだ。本人はおとなしい性格で、文句も言わないし、パニックになって暴れることも(いまのところ)無い!
 しかし、本人はこれで満足しているはずはないと思う。本当は閉じ込められたドアの向こうで、何を考えているのだろう?・・寂しがっているか?怒っているのか?・・??

 このような子と暮らす他のご家庭ではどうされているのだろうか? 子供の安全のためには、『閉じ込め』もある程度は仕方がないのか?でも介護する側の都合で必要以上に閉じ込めているのではないか? そう常に自分自身に問いかけながら暮らしているのが実態である。
 順番からいって、私たちが彼より先に鬼籍に入るのは確実だと、皆から言われる。
 そして、私たちが先にいってしまった後、グループホームか入所施設や、デーサービス、作業所などの方々の介助を受けながら、彼が幸せに暮らせるように用意しておくのが私たちの役割。でも一人寂しく部屋のガラス越しに空を見上げたりすることもきっとあるだろうな。そのような時間が少ないよう、周囲の方々の善意に囲まれて暮らしてほしいものだ。 

(注1) 岸田麗子著「父 岸田劉生」(昭和54年読売新聞社刊)
(注2) 武者小路実篤「岸田劉生」(昭和22年季刊雑誌「花」岸田劉生特集号)
(注3) 武者小路実篤「劉生の画に就いて」(初掲不詳。小学館版全集13巻)

武者小路実篤について、ぜひ、LinkIcon調布市武者小路実篤記念館 LinkIcon「新しき村」ホームページもご参照ください。