'10.2.冒険する科学者

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第19回 何かがきっと待っている


学界の先輩(数年前に登場した元恐竜少女で僕の姉御の佐藤たまきさんである)が言うには、僕はたとえ伝染病がフィールドキャンプで大流行し、隊員がばたばたと倒れていったとしても病気になりそうもない、槍で突いても死にそうにないしぶとい人間だそうだ。というより、だったそうだ。確かに僕はこれまでほとんど医者知らずで生きてきた。骨を折ったこともなければ、風邪もめったにひかない。出されたものを全部食べるどころか人様の食べ物までせしめる大飯食らいで、例外といえば11歳のころ虫垂炎にかかったぐらいである。僕の家系をみても大病は少なく、けっこう好き勝手に生きたあげくに脳梗塞や心不全であっさり亡くなってしまう例が多くて、慢性の病気とはそんなに縁がない。その結果として、僕は前々から病人の痛みや苦しみに鈍感だった。
 その僕がクローン病という病気に罹ったのは去年の夏のことである。免疫系の異常から消化器系に潰瘍ができ、結果として腸に穴があいたり狭窄が進んだりする慢性疾患で、そもそもの原因がまだ解明されていないために、対症療法しかできない。つまり、現在の医学では治せない病気である。珍しい病気であるうえに、本人が「これはやばい」と自覚して病院に行くまでの期間が長かったために、判明するまでに時間がかかってしまい、病気が進行してえらい目にあってしまった。症状は春先から出ていたのに、僕も馬鹿だから海洋研究所に深海魚の研究をしに行ったり、フィールドに出ていったりして、ボロボロになって病院に行ったのが7月末。その時までには大腸から直腸にかけておびただしい数の潰瘍ができていた。1か月かけて病院をたらい回しにされ、ありとあらゆる不快な検査をくりかえし受けたあげく、8月下旬に日本に帰国しそのまま入院。9月なかばに退院して以来、通院治療を続けている。今年の正月明けにはカナダに戻り、休学していた大学院に入り直して研究生活に復帰した。

 去年の春先から何かおかしいという感覚はあった。だって下痢が続いて体重が落ちて、出血がひどいんだから、おかしいと気がつかないわけがない。でも僕は肩をすくめて、海洋研究所でのタフな生活のせいで体調が崩れているだけだと思い込んでいた。だいたい、医者に診てもらおうとしたところで、研究所の半径80キロには病院なんてものが存在しないのだ。
 7月にアルバータ州南部の発掘プロジェクトに参加するころには、高熱が続き、ひどい下痢と出血に悩まされ、脱水症状が続くという状態になっていた。フィールドに赴いてしばらくは僕も気力でつるはしを振るってどんどこ掘っていたのだけれど、これが終わるとエネルギーが尽きてしまった。どういうわけか熱が38度から下がらない。食事もあまり喉を通らず、食べても栄養が吸収されずに出てしまう上に、あちこちで炎症や出血を起こし、太腿の内側の筋肉が腫れあがって、歩いたり座ったりするだけで激痛が走り、ズボンに血がにじむという、7年のフィールド経験でもっとも苦しいシーズンになってしまった。
 でも僕は必死でついていった。毎日起きれば、その日に掘る骨のことを考えていたし、食後の皿洗いは調子が悪くても欠かさなかった。川だって歩いてわたった。石膏ジャケットだって運んだ。いったん現場につけば、作業量だってほかのクルーには負けなかった。こういうのはまったくもって筋の通らない自慢だけれど、たとえ病気を患っていても集中力がとぎれなかったことは僕の誇りなのだ。
 でもそれで病状がよくなるはずがない。毎日フィールドから帰ると、ねじを巻き戻すみたいにテントでぐったり休んでいたし、毎晩夜中に高熱で目を覚まして眠れなかったし、いつもなら僕がやるはずの汚れ仕事を人にまかせて見ていた。そういうのって、いちいち悲しい。
 最後まで「大丈夫です。やれます」と言い張り、意地で作業を続けていたが、2週間後に僕はフィールドから送り返された。「これ以上はこっちが見ていられん」というのが理由である。そこからはほとんど寝たきりの1ヶ月半だった。相変わらず熱は38度から下がらず、ちょっと近所を歩いただけですぐに39度や40度にまであがる。せきの発作に苦しみ、栄養失調と脱水症状が重なって、最低限の食事をとるのもやっとだった。体重は15キロも落ちていた。実に僕の体重の4分の1がどこかに消えてしまったのだ。近所をうろついたり、大学に顔を出すときの僕は、出来そこないのゾンビみたいだった。それなのに病院に行っても、さっぱり埒が明かない。「困りましたねえ」と言って同じような検査をくり返すだけだ。最後はあちこちの関節に炎症をおこして歩くこともできず、車いすに乗せられて日本に帰国する羽目になってしまった。

 僕はこの通りの無神経な人間で、ときどき自分でも嫌になることがあるけれど、そういう時は、けっこうむちゃくちゃなことをしているわりに、人を泣かせるようなことはあまりしてないじゃないかと自分をなぐさめていた。それなのに去年の夏は人を泣かせっぱなしで、ごめんごめんと謝ってばかりだった。進んでこんな病気を引き受けたわけじゃないけれど、僕のせいで、つまり自分の病気のせいで周りの人たちを振り回してしまうのは切ない。仕事の合間に一生懸命看病してくれたガールフレンドを何度も泣かせ、カナダでの通院時に面倒をみてくれたその子の家族を泣かせ、カナダでも日本でも友だちを数人ずつ泣かせ、日本での学校時代の先生や後輩たちを泣かせ、空港職員を泣かせ、カナダで親代わりの師匠とその奥さんを泣かせた。日本の家族だってきっと僕の見ていないところで泣いていたんじゃないかと思う。心配してフィールドから帰ってきてくれた師匠の奥さんは、玄関で僕の姿を見るなり泣き崩れ、病気で苦しんでいたにことに気づかなくてごめんと謝り続けた。ガールフレンドは僕がうなされたり、無理しようとするたびに、どうしたらよくなるのかと泣き続けた。病気で苦しむのは僕だけではない。僕がほとんど正気を保ってないときにも、僕の周りの人はそれを見て苦しんだり、悩んだりしている。そういうのって、すごく不公平だ。病気に罹った僕だけが辛い思いをするのなら、少なくともそれについてはフェアだと言える。それだけなら自己責任だと言える。でも現実はそうじゃない。

 今でもよく辛くなる。この病気はまだ終わっていないのだ。僕が調子に乗って食事制限を緩めたり、無理なことをすると、すぐ体調が崩れてしまう。まだそこで次の機会をじっと待ちかまえていることを、思い出させようとしているみたいに。いつかはまたやってくるのだ。どんなに気をつけても、どんなに頑張っても、いつかまた同じ目に遭うのは避けられそうにない。
 医療費や食事制限を抱え、食後の薬と、2か月の一度の点滴を受けなければならず、これではなかなかフィールドに出ていくこともできない。計画していた半年間の中国やアルゼンチンへの留学だって、諦めなければならない。それどころか外食だって安心してできないし、人の家に招待されても食べるものに困ってしまう。書きかけの論文があるからといって少し夜更かしをすると、そのつけは翌日になってやってくる。これまで当たり前のようにしてきたことができない。そういうことをまだうじうじと考えている僕に対して、ガールフレンドの方は本当にたいしたものだ。僕自身がまだそういう現実を受け入れることができないうちから、すっぱりと覚悟を決めて「最後はうまくいくから、一緒に頑張ろう」と頼もしいことを言う。僕が病気になって困っているんじゃないかと訊いてみても、「私は迷惑をかけられたとは思ってない」とまるで受けつけない。帰国後に僕が入院したことを知ると、迷わず旅行代理店に出かけていって航空券を購入し、はるばる日本までやってきた。そしてそれが、生まれてからカナダを出たことがなかった彼女にとって最初の外国だったのだ。たいした胆力である。

 僕だって、できることなら前ばかりを向いて生きていけたらと思う。これまでと同じように研究ができなくなるとか、不都合なことや不愉快なことをやり過ごさなくてはいけなくなるとか、僕にはもう選びようがないのだ。もうそんなことで気を落としても仕方ない。友だちと会ったり、人に励まされたり、楽しい思いをしていると、僕は実際にそういう気になる。よく笑うし、よくしゃべるようになる。でもしばらくすると僕はまた振り出しに戻ってくる。ひとりに戻れば、もういちど最初からやり直しだ。誰かを責めることができたらずいぶん楽になれるのにと思う。現実的な手続きだって不愉快なものばかりだ。何の助けにもならない連中を相手に頭を下げて、前に進まない物事をプッシュし続ける。だんだん気分が落ち込んでいく。これで最後だとひと段落つけると、また新しいサイクルが始まる。それを半年だけで何度も何度もくり返してきた。
 それから、これは誰のせいというわけでもないが、本当に言いたいことというのは伝わらない。自分の頭の中にあることをカジュアルに話題にするのは、僕はきっと考えすぎるのだ。7年ぶりに実家で暮らしていたというのに、自分にわかっていればいいと心の底で思っているから、ほとんど何も口にしない。だから窮屈でしかたなくて、カナダに帰りたいといつも思っていた。それでも経済的にも、実際的にも、僕は寄生しなければどこにも帰れない状態にあったわけだ。その時々の気分や個人的な好き嫌いとはまったく関係がないのに、問題がいつの間にかそういったことにすり変わっていく。どうしてかというと、まっすぐものが言えなくなっているからだ。
 逆にいえば、そこで毎日親の膝元に泣いて帰って愚痴をこぼすようなら、僕はそもそもカナダに移り住んだりはしなかった、ということになる。それにしても、こうやって文章を書いているあいだでさえ、僕には素直なことが言えない。そこには何か問題があるし、そのことで僕はまだいらだっている。
僕だって好きで病気になったわけじゃない。できることなら、こんなのフェアじゃないと大声で言ってみたい。でもフェアじゃないと思い込んだ時点で、不幸になるのは僕だけだ。僕はそこまで落ち込んではいない。僕がこれから語ることのできるものは、僕がこれまでに語ったことよりも、ずっとずっと多いのだ。これからも再発に悩まされることになりそうだし、みんなと同じようにやっていくのは難しいかもしれない。それはもう選びようがないことだ。でも自分が何をするかはある程度まで選ぶことができる。そして僕にはやりたいことがある。脈絡も動機も大義もなく、自分が何かに夢中になれるということ。どうでもいいようなことに一生懸命になれるということ。自分だけが感じ取ることのできる小さな声が世界のどこかで聞こえているということ。その声を辛抱強くたどっていくことができるということ。そんな好き勝手をくりかえしている自分が、人を好きになったり、人に感謝したり、人を元気づけたりできるということ。誰かに「会えてよかった」と言ってもらえるということ。まだ何一つとして終わっていない。だから僕はここにいる。ここにいて、みんなにあててこれを書いている。

 エドモントンの厳冬はあと3ヶ月で終わる。春が来て、夏がおとずれたら、またフィールドワークの季節がやってくる。そうしたら僕はまた埃だらけのブーツを引っぱりだし、ベースボールキャップをかぶり、ハンマーとつるはしを持って、南部アルバータの恐竜発掘現場に出かけることになるだろう。何かがきっと僕のことを待っているし、僕はそれを見つけに行く。今年も、来年も、それからずっとその先も。