なめとこ山 会報46号



第43回

母のこと

皆さんこんにちは。暑い夏の後は、長雨と台風で、何だか調子を崩してしまった方はいませんか。もう少し、秋を楽しめる日が続くといいですね。
 さて、今回の「なめとこ山通信」は、先日のシルバーウィークに岩手へ行ってきたこと、その時思ったこと、母のこと、等々・・・と、またしても個人的なつぶやきです。ちょっぴり「私小説」風に、母のことなので全部が全部本当なのかどうかは、・・・内緒ということで、本人、楽しんで書いてみました。よろしかったら、お付き合いください。

 秋の連休に、岩手へ行った。一泊二日で父の実家へ行ったのだが、とんぼ返りということで、新幹線を利用した。が、盛岡から先はJRのローカル線に乗り、さらにバス、最後はタクシーと乗り継いでの帰省となった。震災後、JRのローカル線(山田線)は、宮古以南はまったく再建の気配すら見えない。新国立競技場の建設白紙撤回で、五十数億円が無駄になるというのは、どこの国のことだろうかと思う。
 今回の帰省の目的は、法事だった。母の、十三回忌だった。岩手はしっとりと、時折雨模様の天気となった。十二年前の、母の葬儀の日は、秋晴れの気持ちのいい天気だったことを覚えている。今も思い出す、野辺送りというのをした。田舎の葬式の慣習で、お寺に入る前に葬列を作って、寺の境内の外を練り歩いたのだった。近所の人がエプロン姿で野辺に立って、合掌して葬列を見送ってくれていた。あの時と、母の火葬の時とが、人生で一番泣いたかなと思う。本当に、体中の水分が目からも、鼻からも、すべて流れ出てしまうかと思われるほど、あの時は、泣いたなぁ。あれから、十三年目を迎えるのかと思うと、不思議な気もする。自分は、結婚して、娘を連れて法事に来ていた。

 母が病院のベッドで過ごした最期の時、いや、まだ何とか会話が出来る時に病院へ見舞いに行った際、「いいことなんて何にもなかったのに、最期もやっぱり、こんなに苦しいんだもん・・・。」とポツリと言われてしまって、自分は涙をこらえるのに必死だった。あの頃は、何一つ、親孝行できないままに、母に先立たれてしまったという思いでいっぱいだった。母は、看護婦さんに悪いからと言って、どこか苦しくても決して自分から看護婦さんを呼ぼうとしない人だった。老人用のオムツをはくのを断って、点滴のスタンドを引きながら夜中に一人でトイレに行き、そこで転んで頭を打って、寝たきりの原因を作ってしまった。そして最期は、本当に一人で、静かに亡くなったんだって後から聞いた。 辛くても、辛いって言わない、ちょっと意地っ張りな人だった。そうしてたぶん、自分の人生の引き際というのをよく心得ている、侍のような人だった。食事を摂らなくなってすぐに、スーッと、逝ってしまったのだった。

 母の死後、引き出しの整理をしていた時に、メモ用紙に走り書きの文章がみつかって、そこに自分の名前が書かれてあった。母がまだ少し元気な時の文章のようで、大宮で新幹線を待っている時のことだと書いてあった。「新幹線を待ちながらサンドイッチを食べている時に、尚志の好きなビートルズの、あの、神様の心のままに、という歌が流れてきた。私は、心のままにという神様の声を聞いた気がして、思わず涙が溢れてきた。この後の生は、もう神様の御心にゆだねようと思った。・・・」母は縁あってお寺に嫁いだものの、もとは教会に通うような暮らしをしていたとか。二十九歳で両親と死別、三十四歳頃に結婚したのだとか。そういうことは母から直接聞いたのではなく、全て、メモ魔だった母が遺したノートや紙きれに書いてあったものから知ることとなった。
 体の小さい人だった。小さいのに、兄と、年子の私の手を引いて離さずに、二人の子を大きく育ててくれた母。それなのに、心配ばかりかけていた自分。特に、病院に入院し、手術をしたあの時、岩手にいて体調不良のために東京へ出てこられなかった母を、泣かせてしまった。そんなことばかりだった。せめてもう少し長生きしてくれていたらと、今になってそんなことを思ったりする。
 母さん、母さんは幸せでしたか? 生きていくって、どんなことですか。人は、何のために生きているのですか。・・・・

 御嶽山の噴火から9月27日で一年が経ったが、かけがえのない人を亡くしたことに、心の整理がつかない人達がいる。それはもちろん、そうだろうと思う。まだ小学生のお嬢さんを「助けられなかった」という思いで自分を責め続けているお父さんのお気持ちは、察するにあまりある。ただ、人の生死を分けたことが、突然のことであったり、偶然のことであったりすると、人間は本当にちっぽけなんだなぁと思ってしまう。こんなに無力な人間は、何のために生きているのだろうかと。

 大江健三郎の『「自分の木」の下で』というエッセイの中に、こんな話がある。大江氏が10歳だった夏に、日本は太平洋戦争で負け、日本人の生活には大きな変化があった。大江氏は、戦争が終わってひと月経つと、学校に行かなくなっていたという。それは、夏の半ばまで、天皇は「神」だとし、アメリカ人は鬼だと言っていた教師達が、まったく平気で反対のことを言い始めたからだった。少年の大江氏にも、アメリカの民主主義は良いことだとわかってはいたが、教師達が、これまでの考え方、教え方は間違いで、そのことを反省するとも言わないで、ごく自然に、天皇は人間だ、アメリカ人は友達だと教えるようになったことに納得できなかったのだった。もう学校には行かないつもりだった大江少年は、森の中で一人で興味のあることを勉強するつもりだった。ところが強い雨の日、森の中にいて、家に帰ることが出来なくなり、発熱して倒れ、翌々日に消防団の人に救助されるという事件を起こした。家に帰ってからも発熱はおさまらず、医者も、もう手当の方法も薬もないと言って引き上げてしまうことになったのだという。死を覚悟した大江少年は、お母さんと、こんな会話を交わしたのだった。
ーーーお母さん、ぼくは死ぬのだろうか?
ーーー私は、あなたが死なないと思います。死なないように願っています。
ーーーお医者さんが、この子は死ぬだろう、もうどうすることもできない、といわれた。それが聞こえていた。ぼくは死ぬのだろうと思う。
母はしばらく黙っていました。それからこういったのです。
ーーーもしあなたが死んでも、私がもう一度、産んであげるから、大丈夫。
ーーー・・・・けれども、その子供は、いま死んでゆく僕とは違う子供でしょう?
ーーーいいえ、同じですよ、と母はいいました。私から生まれて、あなたがいままで見たり聞いたりしたこと、読んだこと、自分でしてきたこと、それを全部新しいあなたに話してあげます。それから、いまのあなたが知っている言葉を、新しいあなたも話すことになるのだから、ふたりの子供はすっかり同じですよ。

それから大江少年は、本当に静かな心になって眠ることができ、翌朝からは回復して、冬の初めには自分から進んで学校に行くようになったのだという。大江氏のこの文章は、子供が学校に行く理由として語られているのだが、人は何のために生きているのか、人はなぜ生きるのかという問いにも答えているような気がする。

 ところで、生物学者の中には、「生命は皆、遺伝子(DNA)の乗り物である」と考える人がいる。人の生き死にも、遺伝子に支配されているとする考え方だ。すなわち、人はDNAの遺伝情報を複製するための乗り物に過ぎないのだという。一方で、人間だけが文化をもち、高度な技術や言語、宗教を共有し合えるのは、人が、「ミーム」の乗り物だからだとする考え方がある。ミームとはすなわち、「非遺伝的な手段、とくに模倣によって伝えわたされると考えられる文化の一要素」のことである。ミーム・マシーンとしての人間を提唱する学者達は、人が生きる目的とはすなわち、人と人との間にミームを伝播させていくことだとする。そう難しく考えなくてもいいだろう。私という人が生きている意味は、子孫を残すためではなくて、私が生きていたのだということを誰かに知って欲しいから、なのだ。逆に、あなたはこんな生き方をしている(していた)んだね、とその人のミームを受け取ることができたのなら、そのことにお互いの生きてきた意味が見いだされるのではないだろうか。大江氏のお母さんが、すっかり同じ子をもう一度産んであげるから大丈夫、と言ったことは、ミーム的な発想とは少し違うものがあるかもしれない。けれど、人はなぜ生きるのかということを考えた時に、生きていた証を誰かに(新しい自分に)手渡すために生きているということがその答えだろうかと、私はそんなことを考えたのだった。

 DSC_0414.JPG先日の夕やけこやけコンサートの夜の部で、恥ずかしながら、恋するフォーチュンクッキーというダンスを娘と踊った。実は、ずいぶんと練習もしていたのだが、自分はまったく上達しないまま本番を迎えた。しかし、(親バカの目からであるが)娘はすぐに振り付けを覚えて、上手に踊れるようになっていた。これは断じてDNAの所以ではないと思う。それにしても何だろう。・・・娘と一緒に踊るところを、母に見てもらいたかったと、少しだけそう思った。そして、「ありがとう」と、母に、様々な人達に、伝えたいと、そんなことを思った。