かぼちゃ会報49

第11回

実篤と母の“死に水”

先日、5月の「母の日」当日に、仙川で「新しき村」主催の“実篤生誕祭”が行われた。実篤の誕生は1885年(明治18年) 5月12日だが、集まりやすい5月の第二日曜日に「生誕祭」が催される。集まりは、実篤が最後を過ごした旧亭と実篤記念館がある東京・仙川で毎年行われるが、近年は20名ほどのささやかな集まりとなっている。
 今年は実篤の131回目の誕生日であり、つい先ごろ4月9日が実篤逝去から40年にあたる。

 武者小路実篤はとても母上思いだった。幼少のときに父をなくし、実篤には父の記憶すらない。母上33歳の時の8番目の子だった。実篤の兄姉の多くは夭逝し、すぐ上の兄と姉と実篤の3人が残った。没落し殆ど収入のない貴族でありながら、なんとか子爵家としての体面を保ちつつ3人の子育てをすることは容易なことではなかった。若くして子爵の名籍を継いだ兄は、幼少から学業も運動も優秀で、成長後は外交官となりドイツ他の大使になるような子だったので、母上に心配をかけることは殆どなかった。それに引き換え実篤は病弱だったし、学習院での成績も「誇れる」ほどではなかった。末っ子の実篤は、心配も沢山かけたし母上との暮らしが長かったので、当時の世間でよく言われていたように、母上自身も自分の“死に水”は末子の実篤がとってくれると思っていたようだ。
 1926年(大正15年)日向の“新しき村”でのほぼ7年強の村内生活をやめて村を出た実篤は、まず奈良に移り住んだ。村を出た理由はいろいろあったようだが、その理由のうち大きく実篤の気持ちを変えさせたものに、そのころ『母が病弱』ということがあった。遠い日向より東京の母上に少しでも近くに……「いきなり東京では、病弱になった母に、外交官の兄は外国だし、実篤が『死に水』をとるために帰ってきたと、(母が)神経を病んではいけないから。しばらく奈良に住んで、だんだん東京に出てね・・」との実篤の気遣いだったそうである。
 やがて実篤が東京の母上の近所に住まうようになってから、「ぼくと女中だけの所で(母は)死んだんだ。」と後に語っている。実篤は母への気遣いが実ったものだと回想している。
 なぜ村の支援者がいる神戸や京都・大阪ではなく奈良なのか・・学習院中学時代からの大親友・志賀直哉が当時奈良に住んでいたからということも大きかったが、母への“気遣い”を理由のトップに挙げている。

  話変わって、私事だが私の母は急逝したので、近所に住まってはいたのに“死に水”を取ってやれなかった。享年72歳だった。1987年(昭和62年)4月だから、つい先日、30回忌の墓参をしてきた。
  最近は90歳未満で逝くと「あら!まだ若いのに!! 」といわれる。しかも自分自身が今年、母が逝った72歳になろうとしている、今年のこの「母の日」は感慨ひとしおだった。
  亡くなる2年前、筑波勤務を終えて父母の住まいから近い東京世田谷(車なら15分)に帰ってきたが、丁度働き盛りの私は月に一度顔出しすればいい方(妻や子供はたびたび顔出ししてくれていたが)で、実家に行っても母の話をじっくり聞いてやる余裕がなかった。
  そんなある早朝、同居の伯母から「お母さんが亡くなった!」との電話が入った。その朝、隣で寝ていた父が気づいた時すでに息絶えていたとのことだった。特段重篤な病気はなく、まさに急なことで、誰もが唖然とした。誰にも心残りの感があったし、皆それぞれにその死を受け入れることができるまでにかなりの時間を要した。
 妻の父のときも急な“死”だった。ヘルペスの痛みを抑える「ブロック注射」をして、退院・静養中だったが。海外在住の義兄が一時帰国しまた“帰る”という時のささやかな送別会のあと、私どもの家に泊まり杉並の自宅に送った。その翌日朝、知人からの電話を受けた母が、2階の父をおこしに行ったら、ベッドから下りたところで倒れていた。心の準備がなかった誰もが、驚き、“突然死”を受け入れて「父の人生は、父にとって良かったのだ…」と思えるようになるまでに、長い時間が必要だった。
 私の母の数年後、父のときは入院数か月の看病後であったし、その夜も、「もう危ない」との連絡後、担当医が胸を押し続けてくれ、家族みんなが病室に集まってから息を引き取った。誰にも納得できる“死”だった。また妻の母もかなり入院した後、自宅に帰り、訪問医療の手を借りて家族交代で看護した上での昇天だったので、これも納得できる形だった。

かぼちゃ”と“じゃがいも”と“玉葱”の第1回目の冒頭に載せた実篤の詩に 「生まれけり 死ぬる迄は 生くるなり」  というのがある。また、実篤が亡くなる10年前の1966年(81歳)の詩に 「天命」 というのがある
         俺もこの頃
         相当生きて来たと思う
         まだ当分この世に御厄介になる気でいるが
         昔程死ぬのがいやでなくなった
         まだ死にたくないのは事実だし
         之からものになる気も
         ますます強いが
         しかし帰る処に帰る事も
         以前程虚無には思えなくなった
         もう十年も生きられたら
         そろそろ天命を完うした気になれるかも知れぬ
         (あと略)・・・・・・・

 私たちもこの歳になると、いつ何があっても不思議ではない。「天命」が近づきつつあるのを感じる。
 実篤が91歳を目前にして亡くなった。その約10年前に、この詩で“…もう10年も生きられたら…”と言っているので、私も、実篤の享年に近い“あと20年も生きたら”天命を悟れるかもしれない.
 私たちより若い方なのに急に他界され、その葬儀に参列したことがある。障害ある小6の孫息子を育てている私どもも、この子より先に逝くことはまず間違いない。せめて「なんとか、あと20年」と願いつつも、こればかりは神のみぞ知るところで、明日突然かもしれないし、数年しかもたないことだってあるかもしれない。孫たちとの別れが意外と早いかもしれないとの“あせり”からか、健常な下の孫娘の方を、ついつい きつく叱ってしまい反省することが度々ある。
 孫息子の方も最近、自己主張が出てきた。これまで何かしてやったときに、さほど抵抗せずに従ってきていたのに、だんだんに抵抗姿勢を顕著に表すことが出きるようになった。そうした“表現方法”をとれることは、彼にとって発達上の進歩なのだろうと喜ぶべきなのだろうが……。
 たとえば、何よりも“大好きな”食事でも、(結局は完食するのに)…最初はそっぽを向いたり…食べさせようと差し伸べるスプーンやコップを手で乱暴にはらったり……。その時彼は【何かを叫んでいる】ように思える。まだ私たちに理解できない言葉で。朝登校するための着替えに、パジャマをぬがそうとすると必ずといっていいほど、急に寝転びジッパーを下にうつぶせになって私たちの手が入らないようにする。短下肢装具を足に付けさせまいと暴れ…足をバタバタさせてなかなか踵をはめさせない…等々。祖父母の私たちでも“心に余裕を!”などと言ってばかりはいられない。

  こうした障害ある子は、いろいろな人の助けを借りなければ生きていけない。介助してくださる誰からも“愛される”存在であることが望ましいし、せめて介助者が「もう嫌だ!」とならない程度であってほしい。今は学校と、デーサービス、そして月1~2回のショートステイ施設にお世話になっている。『冒険学校』でも多くのボランティアさんに助けていただいている。「高尾山に登ろう」の行事などでも、これまでは手をつないでくだされば、嫌がらずに登っていたが、だんだんと何か叫んで座り込んだり寝転んだりして抵抗するようになるかもしれない。
 私たちが一緒に行動できなくなるのが何時なのか?それまでに彼に、自分の主張を穏やかに表現できる術を身に着けてほしいものだ。

  前に(2015/12月号)の“かぼちゃ”と“じゃがいも”と“玉葱”10 で ドイツ・ナチ政権下で 20万人もの障害者が虐殺された「T4作戦」と、その障害者虐殺がその後の「ユダヤ人大虐殺」の引き金であったことに触れさせていただいた。当時NHKでの特集報道などを参考にこれを記したが、このNHKの放送で、ドイツに取材されていた全盲の藤井克徳さん(注1)が 全国障害者問題研究会の機関紙「みんなのねがい」2016年4月号から【この国に 生れてよかった この時代に 生きてよかった】という連載を始められた。その第2回目の5月号に【戦争と障害者】と題して「ナチ政権下の障害者虐殺の実態」を報告されている。
 世界各地でいまだに戦時下にある地域が沢山ある。こうした所では戦闘員でない一般人でも戦火やテロの被害に巻き込まれているが、まして障害者や病弱者、老齢者など「戦闘員・戦闘のための補助要員として役立たない人々」への扱いは、想像に難くない。

 今まさに、藤井さんがこの連載に際して掲げておられる【この国に 生れてよかった この時代に 生きてよかった】の言葉を達成できるよう、私たちはそれぞれ「なにが出来るか」を一つ一つ行動に移していかねばならないのだろう。   

(注1) 藤井克徳:日本障害者協議会代表・きょうされん専務理事
ふじい かつのり、1949年生れ、養護学校教員をへて、日本初の精神障害者のための共同作業所「あさやけ第2作業所」や「きょうされん」の活動に専念。日本障害フォーラム(JDF)や、日本障害者協議会(JD)など、様々な団体の役員をつとめる。――.以上の(注1)は「みんなのねがい」藤井さんの連載における筆者紹介を転記――

   “かぼちゃ”と“じゃがいも”と“玉葱”9 で 天皇皇后両陛下が昨年「パラオ慰霊の旅」をされた事によせて、直木孝次郎さんが朝日歌壇に投稿された短歌を紹介した。「新しき村」の古くからの会員で 大阪市立大学名誉教授・古代史の学者である、その直木孝次郎(1919年生まれ)さんが、97歳になる今年4月、塙書房から『武者小路実篤とその世界』を出版し、若いころには戦争を忌避していた実篤が、あの第二次大戦時になぜ戦争を肯定する本を出版したか?に触れている。また直木さんの父上が熱心な実篤ファンだったこと、兄上も「村」の村外会員だったこと、実篤と志賀さん、漱石その他との交流、などにも触れている。97のご高齢ながら、頭脳明晰にしてその分析力にも敬服に値する。

**とすると、私が【天命】を知るには 【 あと30年も生きねばならないかな!! 】***

―― 2016.5.18 記 ――