かぼちゃ会報44

第6回

実篤の戯曲“桃源にて”と東日本大震災


実篤記念館.jpg今年(2015年)も、実篤記念館で「観梅のつどい」が行われました。記念館の庭に3本の梅の木がありますが、かって記念館増築の折「新しき村」にあった梅の木が移植されたものです。埼玉県毛呂山にある新しき村・東の村は「梅林」で有名な「越生」の近くにあり、東の村創設当初から梅を植え、毎年梅の実を収穫してきました。実篤ゆかりの「新しき村」育ちの梅が咲く2月に「観梅会」を始めて今年が12回目になりました。記念館ご近所の仙川にある桐朋音楽大学学生さんと地元の邦楽グループ(尺八・箏・三弦など)方々のご協力を得て、記念館室内ガラス越しに梅の花を見ながらのミニコンサートを開き、近くの公民館で「記念館友の会」の方々や来館されたお客様同士の懇談の機会を設けています。
 今年の懇談会では、昭和(戦後まもなく)に作られた 「紙芝居」で、実篤原作の戯曲「桃源にて」を紙芝居仕立てにしたものが、記念館職員の語りで上演され、非常に好評を得ましたし、なかには涙された方もおいででした・・・・。

 もとの戯曲はさほど有名ではありませんが、何回かはプロの劇団や、宝塚でも上演されたりしましたし、「新しき村」会員の劇団でも上演されました。幼稚園向けの紙芝居として作成され、残っていたものが古書店経由で記念館の収蔵品になったものです。

 幼稚園児にこの戯曲の「教訓」「意図」が理解できるのか?と心配する方がいました…
言葉のすべての意味や意図することが分からなくとも、紙芝居を見た子供たちは「子供たちなりに」理解しているのではないか?という方がいました。
 特別支援を必要とする、知的に障害ある子供たちだって同じで、必ずしも噛み砕いて「やさしく」する必要はないのでは…?と。一人一人に合わせて「噛み砕く」のは容易ではありませんし、そのお子さんなりの受け取り方をすればいいのでは?とも考えられます。またその子なりの理解をしていますし、繰り返し何度も見ているとその子なりに消化して自分のものになることがあるように思えます。

この実篤の戯曲「桃源にて」は 大正12年8月に執筆され、同9月に雑誌「改造」に発表されました。まさにこの間、9月1日に「関東大震災」がありました。

 その戯曲のあらすじは・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
昔一人の男が、山の中にせっせと桃の木を植えて20年かけて美しい桃の花咲く「桃源郷」を作り上げました。そこへ暫く会わなかった弟が訪ねてきて桃の美しさに感心し、兄弟仲良く弟の行く末など歓談していました。
 兄が新しい桃を植えるためその場を離れたとき、桃の花の楽園に美しく若い娘が突然現れ「悪漢に追われていますのでお助け下さい。」と弟に頼みました。弟がその娘を枯れ木の間に隠して間もなく、屈強な男たちが来て弟の方に「娘をだせ」といいますが、弟は「そんな娘は見てない」と言い張ります、男たちは、兄の方も脅し「弟が知っているはずだから、娘を差し出さないと、桃の木を切ってしまう」と脅します。兄は弟に「知っているなら、娘がどこにいるか教えてくれ」といい「せっかく20年もかけて、やっと美しい桃源にしたのだから、私にとっては命ともいえる。見も知らない娘のために、兄である私の『命』を失うことになってもいいのか?」と迫ります。
それでも弟の方はシラをきり通し、悪漢たちは何本かの桃の木を切り倒して行ってしまいました。兄は嘆き悲しみ弟をせめ、弟を桃源から追い出し絶交します。
 その後まもなく、この地に君臨する「王様」が通りかかり、桃の林の美しさにほれ込み、「この桃の木をすべて王城の庭に移し替えろ。」と命じます。王の手の者たちが、兄の桃源の全ての桃の木を次々に掘り返したり、切り倒したりしましたが、今回も兄には抵抗のしようもありませんでした。
 その後一年たっても、荒れ果てた桃の林で嘆き悲しみ、生きる気力すら失くしかけて釣りをしている兄にむかって、ある老人が「嘆き悲しんでいても、何も変わらない。本当にしたいことを続けていればきっとよくなるものだ。」と話しかけました。「見てごらん切り株から桃の新しい芽がでてきている。桃は生きているのだ、お前はやるべきことをやり続けなさい。」と言って行ってしまいます。桃の新芽を見て気を取り直した兄は、またせっせと桃の苗木を植え、育ってきた桃の芽を世話してやりました。
 さらに10年後、桃の林は以前にもまして、素晴らしい桃源になり、兄は世間の人々からほめたたえられていました。その兄の所に立派な武士が訪ねてきます。それはあの弟が成長し成功した姿でした。そしてその弟のかたわらに美しい婦人が寄り添っていて、弟は「あの時の娘で、私の妻になりました。その節はお兄さんにはご迷惑をおかけしました・・・」
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 決して「説教」めいたことを言うつもりはありませんが、この戯曲が関東大震災の直前に脱稿し、直後に刊行されたことに、なにか因縁を感じます。
 当時も震災からの復興に多くの方々が 嘆きの淵から立ち上がり、『為すべきことをやり続けた』方々がおられたから、立派に東京は復興を遂げたのでしょうし、その後の戦災にも人々は果敢に立ち上がったものでした。
 今回の東日本大震災でも、家族や知人を失くし、また家や財産や仕事に被害のあった方々にとって、その心の痛みが容易に癒えないだろうとは思います。私たちが「前向きに“立ち上がって”ね」などと差し出がましく言えないとは承知していますが、でもやはり被害を受けた方々に、少しずつでも復興にむけて進んで頂きたいとも思うのです。
 福島県は有数の桃の産地です。一昨年夏、裏磐梯で知り合いの方が経営するペンションに私たち夫婦は孫たちや娘家族と泊めて頂いきました。その折ご主人に桃の果樹園での「桃狩り」にご案内頂いたのですが、果樹園の方は震災・原発事故後、客足が遠のいたとのお話でした。福島市・伊達市・三春など福島県の桃果樹園の方々のご苦労ご心労は、私たちの計り知れないものがあるかと思います。それでも桃の木々は毎年美しい花を咲かせています。私たちが食べる分はほんの僅かですが、「福島の桃は美味しいし、安全なんだよ!」と言い続けたいと思います。

 実篤が作り育ててきた「新しき村」の東の村(埼玉県毛呂山)でも、原発事故以降一時はお茶やシイタケの出荷がとまったことがありました。近隣の作物や、シイタケ栽培用のホダ木に微量の放射能が検出されたからでした。今は近隣を含め「安全な範囲」と認識していますが・・・風評被害は完全に消えたわけではありません。
 それだけに、実篤原作の「桃源にて」を目で追って読んだのではなく、今回の懇談会で紙芝居の上演を見聞きして涙した「観梅のつどい」参加者があったことが、とても印象的でした。
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 ところで、2015年今年は 実篤生誕130年。実篤死後40年。LinkIcon調布市武者小路実篤記念館創立30年の節目の年で、3年後にはLinkIcon「新しき村」が100周年です。今年は記念館展示でも特別展を企画していますし、9月には実篤原作の「愛と死」(注)が栗原小巻さん主演で撮られた松竹映画の上演会も、調布駅近く市役所隣接「たづくり」の大ホールであります。地元・桐朋女学園ご出身の栗原小巻さんには、この折「トーク・ショウ」もお願いしています。

(注)  実篤原作の「愛と死」は下記の二回映画化されている。
    1)昭和34年 日活 「世界を賭(か)ける恋」 主演:石原裕次郎・浅岡ルリ子
    2)昭和46年 松竹 「愛と死」主演:新 克利・栗原小巻
9月の上映は、カラー作品で映像が鮮明な 2)とし、主演の栗原小巻さんにもおいで頂くことになった。