かぼちゃ会報39

第2回

 武者小路実篤と 画業


. 皆さんは“じゃがいも”のスケッチをしたことがありますか?
やってみると、かぼちゃは結構“かぼちゃ”らしく描けるのですが、“じゃがいも”とか“石ころ”等はなかなか“それらしく”描けないのがわかると思います。

 戦後の実篤の代表的小説に“山谷もの”(または“馬鹿一もの”)というシリーズ作品があります。「之も山谷五兵衛の話」で始まる連作です。山谷五兵衛という人物が僕(小説家)のところにふらりとやって来ては、どこまでが本当か作り話なのか分からないような話をしていく。これを“僕”が書きとめたものという設定です。真理先生(真理を語る先生)・馬鹿一(画家・石ころ書き)・白雲(画家)・泰山(書家)といった個性的な主人公達を山谷五兵衛という語り部に面白おかしく語らせるのです。
この「石ころ書き」である「馬鹿一」は “石”や“雑草”ばかりを何年も描き続けていて、幼稚な絵のようでも段々に“それらしく”見えるようになってきていました。真理先生がそうした絵を見たときも「感心しました・・・あの本気さと、石や草を神のつくったもののように尊敬して描いているのに感心しました」と言わしめているのです

 実篤自身40歳過ぎてから絵を描き始め、最初は“それらしく”見えなくて自分でもあきれる程でしたが、まさに石にかじりついてもと、かぼちゃ・じがいも・たまねぎ等、台所など手近にいつもあって、しかも決して動かず、筆が遅いと不平を言わない“モデル”を書き続けていたそうです。今彼の色紙や軸に描かれた石ころやジャガイモは、“うまい”とは言えないまでも、それらしく見えるし、なんとなく“味がある絵”で、その題材が“実篤そのもの”に思えてくるから不思議です。実篤と親交があった梅原龍三郎や中川一政、前田青邨、高田博厚その他、画や彫刻の大家たちも、実篤の絵の独特な魅力を認めていました。

実篤自身「下手はいつまでも下手ならず」
「美に向かって矢を射る男あり 百千万遂には 當たらずと云うことなし」
と言っています。また
「桃栗三年柿八年 達磨は九年 俺は一生」といい、
「勉強勉強・・・よく奇蹟を生む」と
生涯こつこつと努力をしたようです。

 「真理先生」という作品が出版されたとき、口絵に作者・実篤の自画像があり、その下に書いたのが
(真理先生+馬鹿一+白雲+泰山)÷5=この男
という不思議な計算式です。つまりこれら4人は「この男」を含め「実篤」そのものなのです。

 小説・詩・評論や書画の他に、あるいはそれら以上に実篤が情熱を傾けたものに「新しき村」(注1)があります。大正七年に実篤と仲間が日向に創設し、その後昭和十四年に埼玉県毛呂山にその活動の殆どを移した、白樺派の人道主義に基づいて理想郷を目指した共同体です。

 農業を主体に椎茸やお茶、鶏卵の生産などで一日6時間(+)の義務労働はこなしつつ、各構成員が 詩・小説・絵画・陶芸・音楽その他の芸術活動をする・・・けっして人に命令されることの無い社会をつくってきました。村内の会員は一時数十名になりました。長年、村の会計は実篤の著作料からと、村外会員の細々とした寄付や、白樺同人や篤志家の支援などで赤字が補填されてなりたっていました。でも創立40周年の昭和33年にはじめて村の生産活動のみで自活できる様になりました。
 大正のこの時期、理想郷をめざしたいくつかの試みがなされましたが、殆どは失敗に終わりました。実篤と、村に集った者や、事情があって村を出て村外からの支援にまわった「兄弟達」が情熱を傾けた「新しき村」が、今でも埼玉(毛呂山)と日向で生き生きと活動し続けている事、各地の支部毎に村内・村外会員が毎週の定例会をもち、篤く芸術論などをかわし続けている事は、理想郷めざした共同体のなかで非常に稀有な例と言えましょう

(注1)LinkIcon「新しき村」が今年(平成25年11月)95周年となります。
調布市仙川・つつじヶ丘のLinkIcon武者小路実篤記念館では「村創立95年展」が9/7(土)~10/14(月)開催されています。

-2013.9.8記-※もし機会と、私自身の余裕があれば、武者小路実篤について追記の文章3をと考えています。