地球時代の 会報55号



第45回

 Ubunto(南アフリカの言葉)を知っていますか?

私は、かれこれ40年以上日本と外国を行ったり来たりする生活を送っています。
日本の社会がどんなふうに変化していくのかとか、新しい言葉使いなどの情報のインプットの重要性は、自分の専門である語学教育にも関係するので、常に意識しています。
その一つとして、南アフリカ・ダーバンの自宅には、直径2メートルを超す大きな衛星放送のディッシュを置き、NHKのワールドプレミアムを視聴しています。インターネットで日本のテレビが見られる、というサービスもあるのですが、インターネット環境がさほど良くないので、この結構経費のかかる方法を選択せざるを得ないのです。
でもこの頃、こういった一方通行の情報の収得はあまり役に立たないのかも、と思うこともあります。日本語の情報や日本社会の動きなどは、FacebookやTwitterなどのソーシャルメディア経由の方が適格なのかもしれません。
ソーシャルメディアからの情報の収取は、記者や編集者の手を経ていない、〝生の声“とも言えます。
ただ、突然飛び込んでくる、日本に住む人々の“生の声”を聞いて、「えっ、どうして?」と強い違和感を覚えることもあります。
日本に住んでいないから、社会を何となく包んでいる雰囲気のようなものが分からなくなってきているんだろうか、などと自分を疑うこともあります。
が、今回、かなり仲良くしている友人がFacebookで取り上げていた話題にびっくり仰天。その友人の意見にも正直、驚きました。

それは、公共のトイレで、切羽詰まった幼い子どもに順番を譲った人に対して、その譲った人は列の最後に並びなおすべきだ、という主張です。
これを読んだ後、この列の最後に並び直すべき、といういろいろな人の意見を何回も読みましたが、私にはどうしてもすっきり納得できなかったのです。
そこで、南アフリカ人、南アに住む英国人、オランダ人など、いろいろな人達に聞いてみました。
案の定と言うか、彼らから返ってきた答え、100%、全員が同じものでした。
「えっ、どうしてそんなことする必要があるの???」
これ、私がこの話題を読んで、思ったこととまったく同じでした。アフリカ系南ア人、ヨーロッパ系南ア人、インド系南ア人、英国人、オランダ人、もう聞いても聞いても、みんなが同じ答えでした。
「そんなのはお互いさまよ。困ったら助けてもらう、困っている人がいたら助ける」
そこで、私の周りにいる、南アに住んで仕事をしている日本人女性にも聞いてみました。皆さんのお答えは、
「えっ、どうしてそんなことする必要があるの???」

ここでも、判で押したように同じ答えが返ってきました。
結果、心にずっしりと重りを置かれた気分になってしまいました。
私の日本の友人が「列の最後に並び直すべき」とした根拠が、
「大人の私でも腹痛に襲われる時がある。一刻を争う時だってある。だから、一人でも順番が遅くなるのは我慢できないときがある」
とのことでした。
別の人も、
「順番を譲るのはその人の選択であって、文句とか言うつもりはない。でも、それと、自分の判断で別の人の順番を遅くするのは間違っている」
と。
他にも理由は書いてあったのですが、私にはこの二つがどうしても気になったのです。
お腹が急に痛くなって、トイレが必要になったら、トイレに長い列があったとしても、そこで、
「ごめんなさい、ものすごくお腹が痛いんです。トイレの順番を変わってもらえませんか」
と言えないこと事態が、私には、私の周りの南ア人には不自然なのです。
私のこの日本の友人は、立派な社会人で、他人にも動物にも優しい。彼女のような人が、こんな気持ちになってしまうなんて、なんということなんだろう、と胸が痛みます。
また、他人の判断だろうが、幼い子どもの困っている状況を見聞きして、自分には関係ない、他の人のヒロイズムのために自分が損(順番が一回遅れる)をするのは嫌だ、というのも、私には寂しい価値観です。
でも、実際に、こういうことが現代の日本の社会で起こっているんですよね。
自分の持つ感情というのは、理由なく湧き上がってくるものではないことも承知しています。
出羽守と言われようと、きっと、私ができることは、こういうマイナスな感情を見聞きした際に、「そんなにマイナスに考えなくても大丈夫!」と励ましていくことなのかもしれません。
南アフリカの黒人文化には、“Ubuntu”という考え方があります。
Ubuntuとは、まさに、「お互いさま」の精神そのものです。
南アフリカのデズモンド・ツツ大司教(1984年ノーベル平和賞受賞)が“Ubunto”について、2008年にご自身でこう説明されています。

吉村原稿挿入写真.jpgWikipedia より転載私たちの国のある言い伝えに、“ウブントゥ”がある。ウブントゥとは、人間の源。人間は孤立して生きていけない、私たちがお互いにいかに深くつながっているか、ということを説く。一人で人間とはならない。そして、ウブントゥを意識できた人は、その人格の寛容さを他に知らしめることになる。私たちはあまりにも頻繁に自分たちのことを“個人”という概念で捉えすぎている。だが、そうではない。私たちは繋がっていて、私たちがすることすべてが全世界に影響を与える。良き行いをするとき、それは広がる。それは人類全体のためになるのだ。

隣近所だけでなく、「お互いさま」の心がもう少し広く社会に認知されて、実行されるようになれば、もう少し楽観的に生活できるのではないでしょうか。