地球時代の 会報57号

第47回

結婚式―その1

娘、翔子が結婚いたしました。今回と次回は、その結婚式の様子を書きたいと思います。第一回目は当日の私のスピーチをお読みください。
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翔子が生まれたのは、1994年4月27日、まさに南アが新しい時代の幕を開けたその日です。新生南アフリカとその人生を一緒に歩んでいる翔子は、まさに、どこで生まれたとしても、いづれはこの南アフリカでその歩みを始めるために人生が用意されていたかのようです。

翔子は、その頃、JICA勤務だった父親の赴任先のエチオピアに、生後3か月で連れていかれました。彼女の好んだ離乳食は、エチオピア人の国民食、インジェラです。それはそれは美味しいエチオピアコーヒーだって、1歳のお誕生の前から口にしていたツワモノです

幼い頃の翔子は、もちろん、今とそんなに変わらない、前向きで物事にはなんでも挑戦する活発な少女でした。彼女の持つ強さとは、この“根拠なき自信”でしょう。自分が100%知らない、経験したことのないことでも、「やってみよう」と前に進める自信です。これは、彼女が幼い頃から、エチオピアで、日本で、マラウィで、どれだけ多くの大人たちが彼女を支えてくれたか、の表れでしょう。兄のカンジにも共通するものがありますが、翔子は、出会う大人は全員が自分たち子どもを応援してくれる応援団であAdir and Shoko 1.jpgる、という確信がありました。だから、なんでも挑戦できるのです。こういう環境で育つことのできる子どもたちが圧倒的に少なくなってきてしまった現在で、親として、ここに集ってくださった皆様に、どう感謝していいか分かりません。もっと多くの世界の子どもたちが、こういう大人たちに囲まれますように、と願います。

そんな翔子に、突然襲い掛かった翔子の父・稔の死は惨酷なものでした。翔子15歳。かたくなに、「寂しくない、お父さんと私はいつでもすごく仲良かったから、大丈夫。お父さんはそこにいるから」と言い放つ翔子に、私は時間が必要なのだ、と思いました。稔をご存じだった人は、稔がいかに寛慈、翔子を愛し、どれだけその人生すべてをかけて子どもたちに向き合ったかは、きっと記憶していただいていると思います。嘘でも誇張でもなく、名古屋に単身赴任している時期を除き、稔は子どもたちが生まれてから、ただの一度も、週末に子どもたちを置いて、自分ひとりで行動することがない父親でした。だたの一度も、です。

Family.jpg

私たちが南アに移住した最大の理由というのが、稔のこんな一言でした。

「僕は、家族と一緒に毎日夕飯を一緒に食べたいんだ。日本の組織にいたら、退職するまでそれは無理だ」

こんな些細で、単純で、簡単そうな願い。そして、これは、自分たちがしようとすればできる願いでした。だから、これは叶えてあげるべきだ、と私は思い、南アフリカへの移住にも賛成したのでした。

Girls.jpgアディアとの出会いは翔子がまだケープタウン大学生だった頃です。お互いに惹かれ合い、家族にも会い、と順調にお付き合いをしていました。が、翔子は、日本語をもっと深く学ぶため、大学卒業後は日本へ一年間語学修行に行く事になっていました。そこで、日本へ出発する前、翔子は、「アディアが私にプロポーズしなかったら、私からする」と休暇ででかけた米国・オレゴンで宣言しました。せっかちな翔子は、その言葉通り、「Will you marry me?」と雪の中でプロポーズしたのでした。独身の二人が離れ離れで暮らしたら、心も関係も離れてしまう、それが嫌だったら、自分で行動を起こす。あっぱれです。

Girls & Boys 1.jpg今日、ここにもう一つ付け加えなくてはいけないことがあります。結婚式の冒頭で、翔子がこんな言葉でスピーチを始めました。

「男性たちが私の性である女性たちに、どんなにひどいことをしてきたか、ということを知る確信的なフェミニストとして、私は自分が結婚するとは思ってもいませんでした。でも、アディアがそんな私の考えを正してくれたのです」

翔子に取って、結婚式とは、彼女がプロジュースする大きな儀式です。翔子とアディアの考え方が非常によく表れているお式となりました。その考え方とは、1排他的ではない、2環境に配慮する、3手作り! その成果はここにいる皆さんに実感していただいていると思います。
ここにいるのは、これまでの私たち家族がそれぞれの土地で知り合いになった、大切な方々ばかりです。

日本からの皆さんは、生後7週間の翔子が私の事務所のコピー機の上に寝かされていた時代を知っている方々やそのお嬢さんたち。米国からは、私の米国人の家族たち、スティーブとキャロルとクリスティーナ。大学院時代の無二の親友パメラとそのパートナーがセネガルから、エチオピアからは、稔の同僚で、幼かった翔子もよくお世話になったアベバワルク。また、稔の父も、高齢を押して、参加してくれました。父にとって、初めての海外旅行がこの式への参加です。

そして、南ア国内・イスラエルからも、たくさんの親戚の方々。翔子、アディアのお友達。特に翔子のブライズメイドたちは先週の土曜日から合宿方式で、この結婚式のために手伝ってくれています。

特別な感謝を妹えり子と、甥のアジーノ、姪の里奈に送りたいと思います。あなたたちの存在にたくさん助けてもらっていますね。

そして、今日、悲しいことに、この席には来ていない一人の女性がいます。キャッシ―・タッジです。彼女はまさに私たち皆のダーバンのおばあちゃんでした。彼女は翔子とアディアの結婚式に参加することを何よりも楽しみにしていたのですが、今年の2月に彼女のProcession.jpg大好きな天国にいる旦那さんに呼ばれてしまい、あちら側に旅立って行きました。キャシーは、翔子とアディアの婚約が決まった時に、アディアに向かい、「私たちの家族へようこそ!」と言ってくれたのです。キャシー、見ているよね?

翔子もアディアも、移民の子どもたちとしてここ南アフリカに連れてこられ、育ちました。周りの多くの人の支えがあったとはいえ、最終的にここまでたどり着き、こういった結婚式を挙げることができたのは、二人のこれまでの努力と、これからの人生にかける希望の現れです。

Shoko.jpgレイチェル、翔子をあなたの家族の一員として迎えてくれてありがとう。私は、ポーランドとイスラエル出身の親戚ができることの幸せをしみじみと味わっています。

書き手として、14年前、私は翔子の10歳の誕生日に、こんなことを書きました。

「私には、大きくなった翔子が、いろいろな文化を背負う人たちに囲まれて、にこにこしている姿が見えます。その肯定的なパワーが幾重にも、幾重にも彼女と彼女の周りにいる人間に降り注ぎ、困難があったとしても、さらに前進していく翔子が見えます」

あなたのお父さんと私は、カンジやあなたが生まれた時に、お互いに誓ったことがあります。それは、あなたが生まれ持ってきた力をいかにゆがめずに、大きく成長してもらうか、ということです。ここまで丈夫に育ってくれてありがとう。

天国にいるお父さんも、きっと雲の上で、この有光さんのお酒を飲みながら、小林のおじいちゃんやおばあちゃん、キャシーたちと宴会をしているよね。

二人の幸せがこれからも長く、長く続くことを心から祈ります