紙上ツイッター会報65号

小野 晴巳(地球冒険学校準備会顧問)

  まず私の二つの出来事から始めます。
  ひとつは大学時代の友人から暑中見舞い葉書が届きました。内容は短く「今年のイチジクの収穫はダメでした」とありました。彼は某県の公務員を退職して友達とイチジク農園を始め、ここ数年間イチジクの収穫を楽しむようになっていました。それが今年は全然ダメだったようです。
  イチジクを調べてみると、クワ科に属しアダムとイブの神話とかピラミッドの壁面に描かれている、紀元前から栽培されている古い植物のようです。漢字では「無花果」と書きますが、花が無いのではなく果実の中に咲くようです。日本には江戸時代に渡来し明治時代以降栽培されています。
  ふたつは8月15日「終戦記念日」です。
  この日は「全国戦没者追悼式」が行われます。生中継されましたので、黙とう、天皇・皇后両陛下のお言葉、総理大臣の式辞などはご存じでしょう。この後はBS 放送になり衆参両議長、最高裁長官、遺族代表者の追悼の言葉になり終了しました。このように日本の三権の長が追悼されます。今年の遺族代表者は終戦時8歳で現在83歳の方でした。
  私は5歳でしたが、8月15日の事はあまり覚えていません。会員の皆様は数年前の会報に私の父親はビルマ(現ミャンマー)で戦死している事など書いていますので戦没者の一人であることなどご存じかと思います。

  さて、なぜこの二つの出来事を書いたのか?
  それは経験と記憶と体験そして記録がいかに大切か、そして難しいかを言いたかったからです。
  ひとつは「イチジクはダメだった」と一言書いてあっても、すぐに「あ~今年の長雨、梅雨明けは遅かった」とすぐその原因が推測されるからです。このように身近な出来事は実感でき共有できます。
  もうひとつの「終戦記念日」における遺族代表者の言葉はどうでしょうか。戦後75年の現在、同情できても共有することは難しいでしょう。それが普通です。
 この二つの事から次に話を続けます。

1.過去から学ぶ難しさ-鈴木貫太郎という人を知っていますか?

  終戦記念日として8月15日は定着していますが、太平洋戦争敗戦の日でもあります。1945(昭和20)年8月15日の正午、終戦の詔書が昭和天皇の肉声で放送されました(玉音放送という)。ポツダム宣言受諾と無条件降伏が国民に伝えられたのです。国民が初めて天皇の肉声を聞いたといわれています。当時は現人神(あらひとがみ)であり神様ですから姿・声・行動すべてが神聖な存在でした。
  ここから私が伝えたいのはこの「玉音放送」に至るまでの1945年4月7日から8月15日までの政治の動きです。
  この期間の総理大臣は鈴木貫太郎という人です。5か月間の超短命な首相です。私も知りませんでしたが戦争に関する資料を読んでいるとき偶然に知りました。それでこの人の資料を読み始め、ここで紹介したくなりました。
  この人が総理大臣になった時なんと78歳でした。なぜそんな年齢の人が総理になったかといえば、人材不足でしょうか。1945年は戦局が悪化してどうしようもない状態でした。3月10日の東京大空襲をはじめ全国の各都市は焦土化していました。この難局を解決する人は鈴木貫太郎しかいなかったのでしょう。
  鈴木氏は固辞します。天皇まで会って辞退を奏上しますがかえって説得されてしまいます。無欲の鈴木氏は悩んだ末に引き受けたといわれます。これからが日本の運命を変える出来事が待ち受けます。米軍沖縄上陸、ポツダム宣言、広島・長崎の原爆投下、ソ連参戦などが総理大臣期間中に襲ってきます。
  それに対応すべき国内の政局は真っ二つに分かれて収束つきません。会議を開いてもどうしようもないくらい対立します。さらに会議の名称含めてその組織。たとえば同日に「戦争指導会議」2回「閣議」3回「最高戦争指導会議」が開催されています。朝から午前3時まで議論したと記録されています。これで終戦にするか戦争継続・徹底抗戦するかの激論を交わすのですから超人達ですね。
  ただし終戦を主張する人は命がけでした。終戦派の米内氏・東郷氏など常に暗殺の危機にさらされていました。結局これらの会議では結論を出せなくて「御前会議」で決定することになりました。「御前会議」で天皇が最終決定するので聖断といいます。昭和天皇は15回の聖断を行いました。
  最終会議の結果は戦争継続は3人、終戦派は3人の同数でしたが、鈴木貫太郎総理大臣(元々終戦派ですがまとめるためにこれまで沈黙を続けていた)は、ここに枢密院議長を参加させて終戦派優位に工作しています。しかし戦争継続・一億玉砕か、戦争を終結かの二者択一の決定をしませんでした。鈴木総理大臣は聖断を仰いだのです。

鈴木貫太郎.jpg鈴木貫太郎もしここで鈴木総理大臣の採決で終戦を決定していたら、陸・海軍の徹底抗戦派によるクーデターが起き、日本は確実に焦土化したと思います。
  この「御前会議」の結果を受けて、ポツダム宣言受諾と日本の降伏を知らせる「玉音放送」作成と15日正午の放送予告を始めます。
  一部陸軍の徹底抗戦派は「玉音放送」レコードを奪おうと行動を起こします。この動きは「日本のいちばん長い日」として知られています。
  さて、鈴木貫太郎氏は経歴を見ると海軍大臣、連合艦隊司令長官、侍従長等の要職を経験していますから責任がないとは思いません。しかし、もし鈴木氏が総理大臣でなかったら終戦はなく戦い続けていたでしょう。
  そんな感想をもったので書いてみました。人物評価はそれぞれ違うので感想をお聞かせください。

2.現在の息苦しさ-コロナと戦争

 コロナ禍のため外出そのものも悪とされ、旅行も東京の人は除外されました。そんな感じの現在ですが、皆様はどのようにお過ごしですか。
 私は外出も控えめに、旅行などはゼロです。過去にもこんな経験はありません。息子や孫たちとも会えないでいます。帰省もできませんでした。このような生活がいつまで続くのでしょうか。
 あたりまえですがコロナに対して治療法の発見とワクチン開発ができればコロナ禍は終わります。しかしこの見通しが全くないのが現状です。その間に差別行動、経済悪化、家庭内トラブル、子供の健康・医療崩壊など報道され、なんとなく憂鬱になります。
 あの緊急事態下の状況を戦時下の雰囲気とあまりに似ているといった識者がいました。私もその意見に成程と思いましたので書いてみます。
 「マスク着用の姿が一斉に国民服や防空頭巾になったのと二重写し」になるそうです。劇場、映画館、ホールなどの閉鎖なども。自粛警備も隣組制度を思い出すようです。ただ、戦時下でも笑いを求めて開いている劇場へ人が殺到して満員だったと。「敵の飛行機が飛んでくるとわかるとすぐ逃げた」そうです。
 別の識者は「コロナと戦争を例えるのは適切でない」とこんな意見も。「政治家はコロナとの対応を戦争に例えるな。危機を強調することで自分の力を誇示するために使うな。権力維持のために国民の自由や権利を制約するな」といいます。確かに「戦時」には情報も言論も統制されそれが当たり前でした。この意見も納得できます。
 コロナ禍での息苦しさは結局戦時中の不自由さと似ているかもしれません。

3.未来への希望を持とう

  私の今までの経験を振り返ってみると、失意、苦労、悩み、失敗など数えきれないほどあります。それから立ち直れたのはなぜか?
言葉で表現すると、希望とか夢とか、それと時間が必要でした。もっと簡単に表現すると「楽しいことを考えて次に実行しよう」です。たとえば、次の夏休みに旅行しようとか高い買い物をして楽しもうとか趣味を深めようなどと、実現可能なものを考え計画することでした。そのうち時間の経過とともに忘れてしまう、または薄れていきました。ただし、そのためには健康と考える心のゆとりも必要でした。
コロナ禍では見通しのない現在(8月22日です)、希望を持とうと言われても戸惑うだけです。それでも、コロナ禍を乗り越えるためには正しい情報公開と、正確な専門家の意見を伝えてほしい。そして、差別、分断、排除なく国民の生命と生活を守ってほしい。個人の努力も必要ですが、政治家の努力・政策こそ最大の安心感を我々に与えてくれます。期待しています。

  最後に…今回も自由に書かせていただきました。皆さんにお会いしてお話ししたいです。頑張りましょう。