紙上ツイッター会報50号



小野 晴巳(地球冒険学校準備会顧問)

はじめに 
『原子力、明るい未来のエネルギー』

 原発については、賛成反対の意見があるなかで、私なりに考えを述べてみたいと思います。意見を言い易いように、専門的でなく「素人+やや専門的?」位の感覚で書くように努力します。
 今回は、原発についての私たちの理解がどのように進められてきたのかを考えてみたいと思います。

 まず、「原子力、明るい未来のエネルギー」の標語の説明から始めましょう。標語.jpg
(1)今から28年前の1988年3月25日福島県双葉町の「原子力広告塔」前で表彰式がありました。当時の町長から4人の原発推進標語コンクール入賞者症状を受け取った日です。そn4人の中にこの標語考案者の一人である小学生がいました。当時12歳の大沼勇治君です。祝福の言葉は今も耳に残り、故郷の「明るい未来」を信じ、故郷の発展を夢にも疑わなかったそうです。また、誇らしく思ったと語っています。
(2)2015(平成27)年12月21日、双葉町の商店街の入口の大きな看板「原子力、明るい未来のエネルギー」が撤去されようとしています。そこへ防護服に身をかためた夫婦、大沼勇治氏(39歳)と妻の二人は、手にボードを掲げ撤去反対の意思表示をしました。
 それには「撤去が復興」「過去は消せず」と書いてありました。二人は「復興というならこの看板を残し原発事故の痛みを伝えて欲しい」と言葉に詰まりながら震える声で原発事故による恐ろしさを訴えました。
(3)3・11の原発事故以後、大沼勇治氏は住まいを故郷双葉町から会津若松市、埼玉県スーパーアリーナ、愛知県安城市等、避難所を転々と変えながらやっと茨城県古河市に永住地を決めたそうです。その間、双葉町に一時帰宅し「原子力、明るい未来のエネルギー」の看板の下をくぐるたびに、自ら礼賛した原発が、故郷を放射能で汚し、心をずたずたにされ、標語考案者として「いたたまれない後ろめたさ」を感じたそうです。
 そして生まれた長男(4歳)のため、原発PRに利用された自分の誤り、原発事故の真実を伝えるため、揶揄や中傷にめげず、『原子力、破滅未来のエネルギー』へと自ら標語を書き換えました。そして、原発反対行動を始めて現在に至っているそうです。
 ちなみに広告塔標語は410万円の町の予算で前述の日時に撤去されましたが、反対運動の成果で破壊されずに、町の公共施設内に原発の負の遺産として保管されるようです。

1.原発賛成?反対?~その前に

 人類は「生活を豊かにする」ために、心(精神面)や物(物質面)の両面から営々と努力を重ねてきた歴史があります。物質面では、いろいろあるなかで電気の発明が最も重要であることは間違いありません。たとえば、電気のない世界を想像してみましょう。インターネット、TV、コンピュータ等、ひとつ考えても現代社会は成り立たないでしょう。
 原発事故時に計画停電がありました。あの時、私はこんな空想をしました。「もし、宇宙人が地球を侵略するときに、もっとも簡単なのは地球の電気をなくす武器を持って攻めればいい」と思いました。
さて、原発に戻ります。
私たちの原発に関する知識は、福島の事故以前ではだいたい新聞、TV、インターネット等に限られると思います。原発事故後はこれに雑誌、講演、パンフレット等が加わってきます。
 そこで原発推進、原子力理解等がいかに進められたか簡単に書きます。原子力理解・原発推進のための活動は4期に分けられるといいます。

(1期)1968~1979年

 1970年=敦賀原発、美浜原発の営業が始まります。1971年に福島原発が営業を開始。この営業開始前後から原子力のイメージが作られていきます。この時期はテレビより圧倒的に新聞の力が強かった。主なキャッチコピーを列挙します。
・放射線を多重防御しています。ケタちがいの対策・規制をしています。
・暴走しても心配ない、原子炉の安全実験進む。
・温排水を利用して漁業振興に役立てます。海の生活環境に害はありません。
・安全設計の原子炉です。
などですが、原子力・原発のイロハに関する解説や質疑応答が目立ちます。原子力・原発に対する啓蒙の時期です。
 1979年3月28日にアメリカのスリーマイル島事故が発生します。一部の反対者の運動はありますが、国民の大部分は原発推進に傾いていきます。

(2期)1980~1989年

 1980年代は全国各地に原発建設・稼働が始まります。1970年代の原発稼働数19基(うち福井8期と福島6基で2県に集中している)、1980年代の原発原発17基(北海道から鹿児島まで)で、70年代と80年代の、この20年間が日本の原発事業発展期になりました。この時期はTVを使用した説明やタレント・著名人による質疑や一問一答による理解啓蒙が始まります。
主なキャッチコピーを列挙します。
・原発は「安全」をすべてに優先させています。
・このスイカも3分の1は原発で冷やしました。
・原子燃料サイクルの再処理施設は次のようにして安全が確保されます。1、国による厳しい安全審査などの実施。2、国による検査などの実施。3、国内外の最良の技術の採用等による安全の確保。4、県による環境モニタリングの実施。5、安全協定の締結による規制。
などです。
1986年4月チェルノブイリ原発事故発生。
この事故で日本でも大規模な反原発デモが起きました。国民に原発事故を知らしめ、危機感を抱かせる原発事故となりました。原発事故の恐ろしさや安全管理の難しさしさなど徐々に浸透していったのも、このチェルノブイリ事故からといってもよいでしょう。
 しかし、「事故はソ連という社会主義国の旧型原子炉で起きたもので、条件が異なる日本では絶対起こらない」と「私達はこう考えて原発を勧めています」等の説明により、大部分の国民は「チェルノブイリのような事故は決して起こりえない」と断定され納得して原発を受け入れるようになりました。

(3期)1990~1999年

 1990年代の原発稼働数は「もんじゅ」「六ケ所村再処理施設」を含めて16基です。この時期は、チェルノブイリ原発事故による反原発運動も沈静化して、原子力行政・学会・マスコミ等の原発推進派により、再び『明るい未来のエネルギー』として国民は理解するようになり、納得し原発を受け入れる雰囲気になりました。それに伴い原発稼働中の地域市町村は増設を求める賛成・反対運動が動き始めます。高濃度放射性廃棄物の処理施設の設置についても賛成・反対の運動で村を二分する騒ぎが起きました。また、この時期から電力会社により、電力を使用させる宣伝が活発になります。「セントラルヒーター住宅」「オール家電生活」「深夜料金利用により給湯生活」など私達の生活環境に密着してきた時期になりました。

(4期)2000~福島原発事故まで

 2000年代の新規原発稼働は泊原発(北海道)の1基のみですが、原発事業がますます発展していきました。ただし、この30年間の間、数々のトラブルが発生し、新潟県巻町のいわゆる巻原発が住民投票により阻止されるという事例や、一部のマスコミに圧力がかけられるという事件もありました。しかし、『原発はCO2を排出しないクリーンエネルギー』のキーワードのもとに、国民の原子力行政にたいしての信頼は揺らぐことはありませんでした。
・原発はクリーンエネルギー。
・原発は再生可能なエネルギー。
・原発は絶対安全なシステムです。
・放射性廃棄物の処理の仕方が確立されていれば、安心です。
など、多くの人が耳にした事があり、原子力理解の基本になりました。
そして、2011.3.11の福島原発事故発生。
事故が起きた後は、今までに信じていた原発について懐疑的な思いを国民が抱くようになり、原発反対が過半数以上を占めるようになりました。しかし、
・原発は日本の安定供給です。
・原発は環境にやさしい。温暖化防止に役立ちます。
・原発は安い。石油は貿易赤字の元凶です。
 等の原子力行政により、また、地域住民の要望により原発再稼働が始まりました。

 「原発賛成?反対?」については、それぞれの立場から考えてみることも重要です。今後は、両方を書いていくことにしましょう。