なめとこ山 会報64号



第60回

コロナの時代を生きる

 皆さんこんにちは。新型コロナウイルス感染予防のための自粛生活が続いています。5月20日現在、東京都ではまだ緊急事態宣言を継続中ですが、この会報が皆さんに届く頃には、また違った局面になっているかもしれませんね。そのように、刻々と変化する状況の中で、明日の生活はどうなるのだろうという不安な思いを抱き続けて、私たちは今、毎日の生活を送っていることと思います。今はもういっぱいいっぱいの生活で、これ以上は無理、という方もいらっしゃるでしょうか。今を精一杯頑張っている人に、さらに「頑張って」と声をかけるのは酷なことかもしれないし、この先が見えてこないのに「もう少しの辛抱ですよ」と不明瞭なこともなかなか言えません。ただ、止まない雨はないし、明けない夜はありません。こんな言葉ですみません。でもそれは、真実です。

  先日、「コロナの時代の僕ら」という本を読みました。イタリア人のパオロ・ジョルダーノという作家が書いた、正に、新型コロナウイルスがイタリア全土を席巻せんとしている日々の手記です。彼は、書き始めの頃は客観的に「感染症とは、僕らのさまざまな関係を侵す病だ」と記し、感染流行の基本再生産数が1を切れば「流行も終息へと向かうはずだ」と、数学的知見を示して冷静な判断をしています。しかし、日を追って感染者数も死者の数も増え続ける状況の中で、「忍耐の段階が始まる。」「感染症の流行に際しては、何を希望することが許され、何は許されないかを把握すべきだ。」「今度の新型ウイルスの流行は、何もかも『お前らの』せいではない。どうしても犯人の名を挙げろと言うのならば、すべて僕たちのせいだ。」と書き綴っていきます。そしてジョルダーノは、感染者数がどうとか、ましてコロナ禍が誰のせいだとかということではなく、この非日常の中で、生きることを私たちは学ぶべきであるとして、今この時を私たちはどう生きていくべきか、というメッセージを送ります。最後の章「日々を数える」という中で、聖書の詩篇から「われらにおのが日を数えることを教えて、知恵の心を得させてください」という言葉を引いて、ジョルダーノはこう書きます。私たちは感染者数を数え、マスクの販売枚数を数え、自分が諦めた物事の数を数え、危機が去るまであと何日かを数えているけれど、「僕はこんな風に思う。詩篇はみんなにそれとは別の数を数えるように勧めていIMG_0122.jpegるのではないだろうか。日々を価値あるものにさせてくださいーーーあれはそういう祈りなのではないだろうか。苦痛な休憩時間としか思えないこんな日々も含めて、僕らは人生のすべての日々を価値あるものにする数え方を学ぶべきなのではないだろうか。」「日々を数え、知恵の心を得よう。この大きな苦しみが無意味に過ぎ去ることを許してはいけない。」と。さらに出版に当たって3月20日付で書かれた「著者あとがき」の中では、私たちは「いったい何に元どおりになってほしくないのか」を、よく考えるべきだと書き、ジョルダーノがこのコロナ禍を経験して「忘れたくない」と感じたことを、綿々と綴っていきます。そして、事態終息後には復興が始まるだろうけれど、「どうしたらこの非人道的な資本主義をもう少し人間に優しいシステムにできるのか」「人間が環境とのつきあい方をどう変えるべきなのか」、そのような「元に戻ってほしくないこと」を考える、今がその時なのだと訴えるのでした。
 明けない夜はないとして、私たちはそろそろ、コロナ禍の後の生活のことを考えます。あるいは、「コロナとともに生きる」世界のことを考えます。その時、元の生活には戻れないし、ジョルダーノの言うように、元どおりになってはいけないのかもしれませんね。それはあの、東日本大震災の体験後にも、私たちが痛感すべきことだったのかもしれません。私は教員ですので、学校のことを考えます。学校現場では急速なICT化に迫られ、授業は大きく変わるでしょうし、変わらなくてはいけないと言われています。なかなか難しいことですが、本当に一気に、学校は変わるのだと感じています。
 ところで、私の勤めている学校の校長が、Twitterの動画で、毎日「校長先生のことば」と題して生徒に呼びかけるようになりました。先日は、「今は我慢じゃなく 辛抱だ」という言葉でした。う〜ん、我慢も辛抱も、似ているけどなぁと思いましたが、後で調べてみると、語源から考えると二つの言葉は少々違っているようでした。「我慢」というのは、そもそもは仏教語で、「我を拠り所として高慢である。自分自身に固執する。」という意味の自己中心的な否定的な語だったようです。一方、「辛抱」は、同様に仏教語の「心法」から来た言葉で、元は広く「心のはたらき」という意味であったようです。それが一般に、堪え忍ぶという意味となり、字も「辛抱」と当てられるようになったそうです。校長先生は、「我慢というのは、嫌なこと苦しいことをグッと耐えることで、辛抱とは、自分の夢や目標に向かって粘り強く努力することです。」とおっしゃっていました。「心のはたらき」が語源の「辛抱」をより前向きにとらえると、そうなるかもしれませんね。
 我慢や辛抱の語源を確認していて、思い出したことがありました。私は以前、「テロに思う」という文章の中で、英語の「vulnerability」(脆弱さ)という言葉について書いたことがありました。(「なめとこ山通信」44回です。もしお持ちでしたら読み返してみてください。)あの時書いたのは、「vulnerable」という語の語源は「攻撃されやすい」という意味で、強さ・弱さを言う時の言葉だということでした。しかし日本には、強さ・弱さを言う言葉は少なく、「耐える」という意味の言葉が多いと感じていると書いたかと思います。「我慢」や「辛抱」も、元は仏教の言葉とすると、インド系の強さ・弱さに関係する感覚の語句なのかもしれません。それが和語の「耐える」とか「堪える」とかの感覚と結びついて、今
 の「我慢」や「辛抱」の意味となったのでしょう。
 新型コロナウイルスが世界中に拡散した時に、「これはコロナとの戦いだ。戦争だ。」と言ったのは、トランプ大統領だったでしょうか。日本でも、「日本のコロナ対応に欠けていたのは『戦争』の意識だ」という意見があります。でも、私たちはコロナウイルスに、勝ったり負けたりしたのでしょうか。たぶん多くの人は、賢明に家でじっとして、それが過ぎるのを待っていたのだと思います。その時私たちは、辛抱して、実は自分の夢や目標に向かって粘り強く努力していたのではないでしょうか。いやいや、ただ家にいただけ、と言う人もいるかもしれません。それでもみなさんは、きっと、次の自分のステージに向けて、静かに準備していたはずなのです。本当の本当に、ただ家にいただけとおっしゃるのでしたら、(実は私もそうかもしれませんので)今から、コロナ禍の後の私たちの生活について、一緒に考えていきましょう。人間に優しいシステムとはどのようなものか、人が環境と上手につきあっていくには何を変えるべきなのかを。

 ところで、この「なめとこ山通信」は、今回で第60回目を数えました。…と、言いたいところなのですが、実はなんと、第2回目というのが存在しないのでした。私が最初に、冒険学校会報に文章を載せてもらったのは、会報第2号で、会員紹介で自分のことを書いた1ページでした。その後、第3号から平井尚志の「なめとこ山通信」と名前がつき、4号では休載で、5号でいきなり「なめとこ山通信」③となったのでした。まぁ、最初の自己紹介を入れれば、今回60回目の文章です。創刊2号は2004年の8月ですね。あれから16年経ちました。色々なことがあったなぁと、我が事ながらしみじみ思います。赤裸々に自分のことを書いてきたようでもあり、実は隠していることももちろんたくさんあります。いつも、同じ事を書いちゃいけないと思うので、これは書いたことあったかなと思う時には、過去記事を見直したりしています。第44回の文章も、そうやって見つけました。今回読み返してみて、やはり震災の時の文章は、今日のコロナ禍とダブってきて、思うところが多々ありました。第26回「前を向いて」という記事なんかがそうです。あとは、娘と旅行した時の紀行文が多いですが、さすがに最近反抗的になってきた彼女が、こんな過去はすべて消してくれ!といつか言ってくるのではないかと、恐々としています。
 そういう訳で、(どういう訳で?)次回からの「なめとこ山通信」は、少々進化した形にしようかなと考えています。自分自身もまた、アフターコロナを生きる、新しい人間でありたい、という思いからです。いや、そんなかっこいいものではなく、ちょっと疲れちゃったので、サボろうかな、という意味になるかもしれません。さて。どうしましょう。どうなるでしょう。
 新しい時代は、すぐそこに来ています。