なめとこ山 会報53号



第50回

50歳の、夏

  皆さんこんにちは。雨の多い、夏でしたね。皆さんは、いかがお過ごしでしたか。私にとっては、ちょっと印象に残る、心に残る、夏になりました。今回は、小学生が夏休みの作文をダラダラと書くような、そんな文章になりました。こんな夏を過ごしたのだと、自分が忘れないようにと、書いてみました。
 7月の初め、まだ夏休み前のことですが、私は久しぶりにちょっと大きな買い物をしました。十年以上乗っていた車を、買い替えたのです。新車は、これまで乗っていたのと同様スバル車ですが、少しサイズをコンパクトにしました。十年ぶりの新しい車、それはなんだか違う乗り物のように、進化を遂げていたのです。キーの抜き差しをしないこと、速度を設定するとずっとそのスピードで走っていること、なのでアクセルを踏むこともなく、指だけで運転操縦できること等々。もちろん、ぶつかりそうになると自動で止まるシステム(スバルでは、アイサイトと呼んでいます。)装着車です。ただ、あれれ、今のはどうして減速したんだろう……と、少しだけ過剰に反応してしまう部分があったりもします。車は進化した、という思いでいっぱいですが、これからもっともっと進化するに違いない、ということも感じられる、新しい車なのでした。

 夏休みに入ってすぐ、娘と、上野の国立科学博物館(以下、科博)へ行きました。科博では、特別展「深海」が始まっていました。以前、私たち親子は伊豆を旅行した時に、沼津にある「沼津港深海水族館」を訪れたことがありました。そこで、ダンゴムシを巨大にしたようなダイオウグソクムシや、目の周りを光らせて泳ぐ魚などの不思議な生き物たちをたくさん見て、とても興奮して帰ってきました。それで、科博のこの特別展も、大いに期待して出かけたのですが、……会場内はとにかく人、人、人でいっぱいなのでした。深海ってそんなにブームなの?と、自分たちのことは棚に上げて考えました。展示されているのも深海魚の生きている姿ではなく、映像やホルマリン漬けの姿ばかりでした。そうして気づきました、ここは水族館ではなく、博物館なのだと。巨大なダイオウイカの標本は迫力ありましたし、深海を探検してきた人の活動についての展示も興味深かったのですが、いま一つ、なんだかなぁという思いで、私たちは科博を後にしました。

  7月末、勤めている高校の山岳同好会の夏合宿があり、南アルプ農鳥岳といずれも三千mを超える山を結ぶ、南アルプスのパノラマルートで、高い山の縦走が久しぶりの私も生徒以上にワクワクしてこの日を楽しみにしていました。が、皆さんご存知の通り、今年は梅雨が明けてから梅雨になったような、雨続きの夏になってしまいましたよね。この時も、迷走台風5号の影響もあって、二泊目は夜、雨が降り続きました。私たちはテント縦走で、三泊目も計画していたのですが、雨に濡れたテントを出してまた雨の中泊まるのは気が進まないという意見が出て、それで頑張って三日目に下山してきたのでした。三千m峰が初めてだった生徒たちは展望を堪能することもなく、ただただ苦しい登り下りを経験して、彼らには修行のような登山になってしまいました。雨のテント泊のことは嫌いでも、山登りは嫌いにならないで、という思いでいっぱいです。

 8月始め、小学4年生の娘が、今年の夏休みの自由研究は、工場見学がしたいと言い出しました。なるほど、自由研究には、地方へ出かけた時の旅行記のようなものや、社会科見学みたいな感じにまとめたものも、毎年いくつか発表されています。工場見学できるところをインターネット等で調べてみて、茨城のタカノフーズの納豆工場に行ってみよう!ということになりました。私はほぼ毎朝、納豆を食べていて、(妻は九州人なので食べませんが、)いつしか娘も一緒に食べるようになって、このネバネバ食品に興味をもったようなのです。茨城の納豆工場は、東京の我が家からだと微妙に遠い距離にありました。集合時間に少し遅れて着くと、夏休みに入ったせいか、すでにたくさんの親子連れがホールに集合していて、工場見学用のDVDを見ているところでした。その後の工場見学は、長い時間ではありませんでしたが、例えば、納豆菌は呼吸をする(好気性菌)ので、パックのフィルムには小さい穴が開いていることや、パッキングしてから一定温度の部屋で発酵させて納豆菌を増やしていること、発酵終了時は部屋の酸素濃度が激減しているため酸素欠乏危険作業主任者という資格のある人しかその部屋に入れないこと、発酵の後は別の部屋で今度は低温で菌を熟成させること等々、授業を受けるように納豆に関する色々なことが勉強できました。少しずつでしたが納豆製品の試食もあり、併設の納豆博物館も見学して、楽しい工場見学となりました。

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工場見学は午前中に終了しました。この日の午後から、私は車で岩手に行くことになっていました。前日、岩手にいる兄から電話で、入院している父の容態が悪いから来てくれ、という連絡が入っていたのでした。特に今すぐという感じではなさそうだったので、妻と娘は最寄りのJRの駅から帰宅させ、私一人、常磐自動車道経由で岩手に向かいました。福島の原発事故以後の常磐道を利用したのは、この時が初めてでした。茨城からだと、東北自動車道を経由するよりいくらか早く岩手に着きます。走っていると所々に、空間線量率を知らせるモニタリングポストが置かれています。そこに表示される数値を見ても、何を意味するのか、自分の健康にどう影響するのか、まったくわかりませんでした。わからないまま走っていることが、怖いことなのかもしれません。(常磐道を走ることによる被ばく量は、胸のレントゲン撮影による被ばく量の十分の一程度という見解もあります。それが多いか少ないかは、個人の受け取り方なのでしょう。)
 午後6時頃に、盛岡郊外にある病院に到着しました。父は肺炎にかかっていて酸素マスクをしており、意識はない状態でした。一度、兄も私も病院を離れたところで待機することになりましたが、再び病院から呼び出され、その時にはすでに父は亡くなっていました。夜中の11時過ぎ、父は86歳でした。それから慌ただしく病院を出る支度を整え、父と、私たち兄弟とはそれぞれ別の車に乗り込み、2時間ほど車を走らせて、父の実家である山田町豊間根の家に帰ったのでした。以前にも書いたと思いますが、父は豊間根で寺の住職をしていました。8月の初め頃、入院していた父から電話があったことを思い出しました。その時はまだ話ができ、「肺炎にかかっちゃったんだ。お盆の時は忙しくて無理だろうから、その前におまえ帰ってきて豊間根に連れて行ってくれないか。」そんな内容のことを私は父から言われていたのでした。父さん、帰りたかったんだなぁと思いました。そして、父が言っていたこの日に、ここに帰してあげられたことに、何か不思議な思いがこみ上げてくるのでした。

  4日間忌引で学校を休みました。寺のこと葬儀のことは、すでに父の代わりに住職を務めていた兄が、様々なことを手配していきます。私は、忙しい兄の代わりに、父のそばにいました。納棺の儀というのがあり、母の時にも支度をしたというおじいさんが、父と話をしながら服を着替えさせ、納棺のための支度を整えてくれました。私も父に白足袋を履かせるのを手伝いました。東京から呼び寄せた妻と娘が到着し、密葬と火葬と初七日の儀に参列しました。娘は、おじいちゃんが死んだということの実感がないようでした。急なことだったのに健気にいろいろと手伝ってくれました。父の机の上を片付けている時に、孫である娘や兄の娘さんの写真がたくさん出てきて、私はちょっとウルウルとしてしまいました。
 葬儀の後、一度家族で東京へ戻りました。お盆の時期は私は年休を取っていましたが、途中、担当していた業務のことで午前だけ学校に顔を出し、午後からまた車で岩手へ行き、お盆の寺の仕事の手伝いを終えた日の夜中に東京に戻ってきました。岩手へはその後も行って、父の残したものの始末などをしてきました。よく走る車に買い替えていて良かったと思いました。
 ……
 8月末、娘と一緒に箱根登山鉄道に乗りに行きました。夏休みは鉄道各社で、スタンプラリーや謎解き企画ということをしています。娘は、謎解きものが大好きです。宝探しの感覚で、謎を解いては次に進み、また謎解きをしてはゴールを目指すという企画が、わりとあちこちで催されていて、何度か挑戦したことがありました。今回も、「ナゾトキ登山鉄道ワンダートレイン」という箱根登山鉄道の企画に乗って、夏休みの一日を過ごすことになったのでした。箱根登山鉄道を選んだのは、謎を解く過程でスマホを必要としないからでした。(私たちはスマホを持っていません。)しかし実際に挑戦してみると、最初から難しくて、ヒントが欲しい!しかもそのヒントは、やっぱりスマホを操作しないと見られない!とわかったのでした。それでも私たち親子は、何とか謎を解き、もう無理という時には、駅員さんにヒントを聞くということもして、本当に一日がかりの悪戦苦闘の末、最後の「宝」にたどり着いたのでした。(この日は冒険学校の世話人会の日でしたが、すっかり遅くなって疲れてしまったので、世話人会は出られませんでした。すみません。)
 この夏休みは、小4の娘と一緒に遊ぶ機会がそれほどありませんでした。キャンプに行こうと思っていましたが、それもかないませんでした。それは、父の法事など色々なことがあったからでもありますが、娘自身がカブスカウトの合宿に出かけたり、卓球の練習を入れたりと、だんだん相手にしてくれなくなったからでもありました。何かが変わろうとしている夏、なのかなぁと、50歳の夏を振り返った私でした。

 学校はまだ始まりませんが、8月末から普段通りに出勤しています。29日の朝は、Jアラートというものを初めて意識した朝でした。ただ、警報が出ても何をしたらいいのか、何かしても変わらないのでは、というぼんやりとした不安ばかりが、後に残りました。そういう時代、なのでしょうか。新しい時代というのがあるとすれば、今とは違う何か確かなものを私から若い人たちに手渡して、若い彼らに新しい時代の担い手になってほしいと思います。
 夏休みの最後の週、家に帰ると納豆のにおいがします。娘が、自由研究の締めくくりに、手作りの納豆に挑戦しているようです。毎朝、山のように納豆が出てきます。納豆を食べて、頑張れ、新しい時代の若者たち!