冒険する科学者会報31号

旧冒険する科学者.jpg

第26回

その日を忘れない

  10年前の9月11日を僕ははっきり覚えている。僕は中学生で、夜更けにインターネットでチャットをやっていた。そこに、ニューヨークの世界貿易センターに飛行機が突っ込んだ、と書き込んだ人がいて、「またまたそんな、ほらばっかり吹いて」と返したのだけど、それが冗談ではなかったことが翌日のニュース映像で判明した。ビルから黒煙が上り、やがて崩れていくその映像は今でも僕の中学時代のバックグラウンドとして残っている。その時に感じたまとわりついてくるような不気味さは今でもすぐに思い出せる。
 でも今年の3月11日は、つまり東日本大震災は、それといくらか違った意味での不意打ちだった。僕に地震の一報が入ったのは、カナダの現地時間でようやく3月11日になったころだった。寝る前にニュースサイトを見たら、「日本で大地震」とあった。

 その後数時間にわたって続報が入り、僕にも事情が飲み込めて来た。震源が東京から遠いといって油断していたが、想像以上に甚大な災害になりつつあるようだった。とにかく実家に電話をかけてみる。僕は実家には1年に1回も電話すればいい方で、たまにかけると「誰ですか」と言われる。だからすぐに電話をかけたということは、それだけ危機感があったということになる。しかし電話はつながらなかった。その時はよくわかっていなかったのだけれど、通信網が完全に遮断されていたのである。そして津波の映像が入って来た。海が手をのばして陸地を力ずくで引っ張り込もうとしているみたいだった。そして原発事故があった。
 数日たって家族と連絡がつながり、友だちの安否が少しずつわかるようになっても、僕は一睡もできずにコンピュータの前に座って、津波や地震の映像を繰り返して見ていた。椅子の上で眠って、簡単な食事をして、メールや電話で安否確認をして、目が開いていれば映像ばかり見ていた。 あれだけの被害をくりかえし見せられて、自分は研究だなんて悠長なことはなかなか考えられなかった。かといって、ただでさえお金もなく、結婚から発掘から研究室の補佐から、そんなことを抱えている僕のような学生が、思いつきで飛行機に乗って、手弁当を作って、東北地方にあらわれてボランティアをやるものでもない。大学の休みがずれこんだ弟をのぞけば、家族も参列できるという返答があったので、結婚式も予定通り行われることになった。夏の発掘調査も迫っていた。今になってようやく振り返るだけの余裕ができたような気がする。

 そうして振り返ってみて思う。この震災の教訓とは何だろうかと。
 手あかのついた言葉を使うなら、震災からの復興は、悲しみと、諦めと、励ましと、希望で始まった。ボランティアに駆けつける人もいれば、義捐金を送る人もいた。日本人は必ずこの震災から復興するんだというひとつの意志のもとに団結したかに見えた。でも杜撰な計画や、無責任な対応が問題になった。復興のための作業はなかなか進まなかった。仮設住宅に空きがある。義捐金が届かない。家に帰れない。原発事故は未だに収束していない。農作物が放射性物質で汚染される。ニセ医師が現れる。復興という言葉はもう使い古されて、誰かがその言葉を使うたびにその意味が少しずつずれていく。その復興という合言葉でリードしていくはずの政治家たちに、冷めた視線が注がれている。東電の賠償がまとまらない。あるいは滞る。電気料金を上げるとも言い出す。でも、日本人は本気で怒らない。暴れることもない。むしろあきれている。これはカナダ人に説明してもなかなか理解してもらえない。

 いったい何が起こったのか?
 政治が悪いんだ、権力争いをしているからだ、と言うのは簡単だ。でもそれだけではない。できるならこんな大きなテーマをひとくくりにしたくはないけれど、僕たち日本人は震災という現実に疲れ始めている、ということはできないだろうか。もっと踏み込んで言えば、震災後の心持ちの変化に何かしら後ろめたいものを感じているからこそ、震災が引き起こした本当の悲劇や、本当に学び取るべき教訓が、もしかしたら少しずつ隠され、薄まっているのかもしれない。これは個人的に感じていることだし、それが多数の人たちに当てはまるとは思っていない。しかし僕個人の経緯をたどってみるとこういうことになる。まず、みんなで一緒にこの危機を乗り越えたいという気持ちがある。できるだけのことをする。でもそこには現実という壁が立ちはだかっている。義捐金が行き渡り、効果を発揮するまでには時間がかかる。原発をすべて止めれば電力が不足する。増税をすれば生活負担が増える。放射能が危ないという専門家もいる。心配だが、パニックに陥る必要は無いという専門家もいる。誰の言葉を信用していいのか、自信をもつことができない。そして張りつめていた神経がゆるみ始める。事態にいらだちを覚えるようになる。でもそのいらだちを誰にむければいいのかわからない。首相が悪いのかもしれない。東電が悪いのかもしれない。でもそうやっていらだち、指を指し、言葉を投げつけていくことで、もしかしたら僕は、そこにある本当に学び取るべきものを見失っているのかもしれない。つまり、自分が何かをするのではなく、誰かに何かを期待し、それがうまくいかないからいらだち、それが後ろめたいからこそ腹を立てているのではないか。要約すると、こういったことになると思う。

 責任のある人物に責任を取らせること、これはとても大事なことだ。できるだけ有能な人に責任を担ってもらうこと、これも必要なことだ。しかしそれと同時に、簡単なことでもある。簡単というのは、手続きが簡単なのではなくて、図式が簡単だということだ。誰かが悪いというのは、非常にわかりやすい。そして、悪いところは正す、これもまったくの正論である。そうするべきだ。でもそのわかりやすい乗り物にみんなして乗っかることで、実は問題をすりかえているのではないだろうか。誰かが責任を取ることで満足し、誰かが声をあげることに安心して、自分の小さな責任を忘れているのではないだろうか。誰が本当に苦しんでいて、誰が本当に傷ついているかを、考えていないのではないだろうか 震災直後に僕が携わったことのひとつに、エドモントンで義捐金を募るチャリティーイベントの企画運営がある。最初のうちは僕も熱心だったけれど、普段つどわない日本人の学生がひとつの場所に集まることで、実行委員会そのものがイベント化しているような気がして、どうも気に食わなかった。何もお通夜のような顔をしてやれというわけではない。楽しめばいい。でも趣旨目的ははっきりしていないと困る。学園祭をやっているわけではないのだ。
 僕が真剣に腹を立てたのは、イベントの打ち合わせをする時だった。僕は受付係で、このグループは入場者ひとりひとりに配るために折り鶴を折っていた。その目標が300羽だった。どうして300羽なのかと訊くと、それは会場の客席が300だからだった。これはまあいい。そんな細かいことに文句を付けても仕方ない。しかし打ち合わせの席で、実行委員会のトップがこのような指示を出したのだ。席にあわせて折り鶴が300羽ある。せっかく入場料を払って来てくれるお客さんに立ち見をさせるのも申し訳ないし、折り鶴がないのも申し訳ないから、300人入ったらその時点で打ち止めにして、その後から来る人には帰ってもらえと言うのである。
 これはどう考えてもおかしい。つまり実行委員会は、立ち見になるけれど寄付はしてくれと言うよりも、へたくそな折り鶴が足りないから帰ってくれと言う方が失礼ではないと考えているのだ。これは、たとえば50人分の救援物資を、1枚のビスケットを数人で分け合っているような避難所までトラックで運んでいったら、避難所の管理をしている市役所職員から「うちには52人いるので、平等に分配できない。よそに行ってくれ」と言う、あのどうしようもない出来事と同じ問題ではないか。
 イベントそのものもつまらなかったが、この指示には恥ずかしくなった。当日はその指示を無視して、折り鶴があろうとあるまいと、来てくれる先から「どうもありがとうございます」と寄付金を受け取って入場してもらったのは言うまでもない。

 さらにもうひとつ気に食わないのは、このイベントが終わると「じゃ、やることはやったから」と実行委員会が店じまいをしてしまったことである。学期末だったということもあるけれど、それにしても無責任ではないだろうか。これからが大変なときである。少なくとも、委員会を維持して、継続して何ができるかを考えていってもいいじゃないか。もともと中心になっている大学院生たちは、新学期もここにいるのだから。お金だけ渡して、それで終わりなのか?そんな軽い気持ちでチャリティーをやっていたとしたら、まったくのインチキである。
 その時につくづく思い知らされた。彼らにとっては、これはサークル活動なんだと。何度も言うように、物見遊山が悪いのではない。しかし誰かを助けようとするならば、そこにはある程度の自覚が必要だ。中途半端な善意は人を傷つけるというのは、こういったことを言うのだ。
 誤解がないようにもういちど繰り返したい。チャリティーそのものが悪いというのではない。でも今回の震災の被害を増大させた人為的な要因とまったく同じ問題が、善意の側にも根付いている。つまり、イベントを主催した僕たちは何も学ばなかったし、何も解決していなかったのである。これはよくよく考えると、恐ろしいことだ。杜撰な原発の設計を見過ごし、避難所の人たちまで物資を届けられず、福島に廃墟を作り出し、風評被害を引き起こし、家畜を見殺しにさせ、土地の除染を滞らせ、今なお原発を容認して、あの災害を更なる悪夢に変えた要因とまったく同じ性質のものが、僕たちの中にもあるということになるのだから。
 だから僕はこの出来事を念頭において、「そうやっていらだち、指を指し、言葉を投げつけていくことで、そこにある本当に学び取るべきものを見失っているのかもしれない」と書いた。僕はここで鏡の中の自分と向き合っているわけだ。合わせ鏡の中の自分の姿は、どこまでも反射して続いていく。

 僕はそういった自分の小さな責任とどう向き合っていけばいいのか、まだ考えている。そこには、文字で書かれた明確なガイドラインが存在しないからだ。あえて言葉にするならば、それは震災の日に自分が感じたことを忘れないということだ。ふだん電話をしない僕が、家族や友だちに国際電話をかけ続けた時に、僕が何を考えていたか。もし日本中の人たちがあの日に感じたことを忘れなければ、たとえ世界がどうであろうと、東北が立ち直り、日本全体が幸福になっていく過程に、諦観や倦怠感の入り込む余地はないはずだと僕は信じている。