なめとこ山 会報50号



第47回

オリンピック、パラリンピック

皆さんこんにちは。会報の8月号がお休みでしたので、お久しぶりでございます。いかがお過ごしでしょうか。季節はすっかり秋ですが、今年の夏は、やっぱりオリンピックで盛り上がりましたよね。そういう訳で(無理矢理ですが)、今号の「なめとこ山通信」は、オリンピック・パラリンピックの年に思ったこと、という感じで書いてみようと思います。

  熱い、オリンピックの夏でした。皆さんは、どの競技が一番思い出に残っていますか。女子レスリングの伊調馨選手、五輪女子種目史上初の4連覇はお見事でした。国民栄誉賞も納得です。体操の団体金メダル、内村航平選手の個人総合2連覇も素晴らしかったですね。バドミントンの髙橋・松友「タカマツ」ペアの金メダル、おめでとう!。卓球日本男女揃っての表彰台、見事でした。水泳、柔道でも、応援に力が入りましたね。カヌーや競歩という種目でもメダルが獲れたことは、嬉しい驚きでした。・・・と、挙げていれば切りが無いのですが、私的には、一番驚いたのと、同時に賞賛したいのは、陸上4×100mリレーでの銀メダル獲得です。日本選手が陸上トラック種目で銀メダルを取るなんて、本当に凄いことだと思いました。凄いことなのですが、もしかしたら、東京での金もあり得るのではと感じさせてくれたことがまた、本当に凄いことのように思いました。
  実は私、わりとオリンピック大好き人間でして、1976年のモントリオール・オリンピックから、朝日新聞社編集のオリンピック総集編の雑誌をとってあります。(昔は、「アサヒグラフ」増刊でした。アテネ・オリンピックから「週刊朝日」増刊になっています。東京オリンピックの「アサヒグラフ」は、父の買った物です。)その表紙を飾るのが、謂わばその年のオリンピックの顔なわけですが、1984年ロサンゼルス大会ではカールルイス(懐かしいですね)、88年ソウル大会ではジョイナーと、どちらも陸上のアメリカ人選手でした。その次の大会バルセロナの顔は、日本人の水泳選手、岩崎恭子さんでした。中学生の金メダリスト、「今まで生きてきた中で・・・」の言葉がありましたね。その後、96年アトランタでは有森裕子さん、2000年シドニーでは高橋尚子さんと、女子マラソン選手が続けて表紙を飾っています。この頃は、女性の時代だったでしょうか。次の大会、アテネの顔も女子マラソン金の野口選手かと思いきや、水泳平泳ぎ100m、200mと二冠達成の北島康介選手が表紙になります。北島選手は次の北京大会の顔にもなりました。そして、ロンドン大会、リオと続いて大会の顔となったのは内村航平選手でした。一つの大会で個人の複数メダル、というのが表紙を飾る基準なのでしょうか。柔道やレスリングの選手が表紙を飾ったことはまだ無いですね。ちなみに、オリンピック選手の国民栄誉賞受賞は、柔道の山下選手、陸上の高橋尚子さん、レスリングの吉田沙保里さん、伊調馨さんです。(女子サッカー「なでしこジャパン」もオリンピック銀メダルチームですが、なでしこは、ワールドカップ優勝ということでの国民栄誉賞でしたね。)

なめとこ山通信写真1.jpg

  オリンピックで輝いた人がいれば、力を出し切れずに涙をのんだ人もいるのが、魔物がいるというオリンピックという舞台なのでしょう。今年のリオでは、金メダルの期待のかかった吉田沙保里さんが、銀メダルに終わってしまいました。残念でしたが、心から、お疲れさまでしたと声をかけてあげたいです。ところで私の勤めている学校の校長が、始業式でも終業式でも、わりと面白い話をしてくれるのですが、9月の始業式での話はやはり、オリンピックネタでした。校長は吉田選手のファンだということで、頻りに残念がっていた後で、こんなことを言っていました。「オリンピックで順位なんてつけなければいいのに。」と。校長曰く、あんなに頑張っていた選手達に、1位2位という順番を決める必要があるだろうか、ということなのです。君たちの時代のいつの日かに、順位を決するのではないオリンピックが実現したらと思うし、そういうオリンピックを君たちが実現させてくれ、と言うのでした。なかなかラジカルなことを言う校長です。私は、人類の、70億分の1を決するのが、オリンピックの舞台だと思っています。そういう意味では、順位をつける必要はないとする校長とは見解を異とするものですが、ただ一番を、金メダルだけを決めるのもありなのではないかと思ったりします。単純に、誰が一番速いのか、誰が一番強いのかを、知りたいんです。(高校野球も、基本的にはその夏一番強かったチームを決める大会と考えています。)近代オリンピックの最初の大会であった1896年のアテネ大会では、優勝者には純銀のメダルとオリーブの冠が与えられ、準優勝者には銅メダルが与えられたそうです。昨今の大会では国ごとのメダル争いの様相も呈しているオリンピックですが、初心に返ってメダルは二つだけにするというのも、ありなのではと思いました。なめとこ山通信2.jpg
  オリンピックのあった夏に、『2時間で走る』という本(エド・シーサ著 河出書房新社)を読みました。マラソンランナーの「サブ2」(フルマラソンで2時間を切ること)への挑戦の話であり、その可能性を秘めたアフリカ勢ランナーの強さの秘密を語った本でした。読めば、いつかきっと、人はフルマラソンを2時間以内で走るだろうという気がしてきます。私が記憶している最初のオリンピック、1976年のモントリオール大会で、水泳男子100m自由形に出場したジム・モンゴメリーというアメリカ人選手が、当時科学的に不可能と言われていた50秒の壁を切る、49秒99の記録で優勝しました。子どもながらに、それはもの凄いことのように思いました。水泳の他の種目も、陸上競技の記録も、そしてマラソンの記録も、どんどん短縮されています。人はいったい、どれほど速く、強くなれるのか、それを決めるのが、4年に一度のオリンピックであるような気がします。

 さて、オリンピックが終わって、次はパラリンピックが始まりました。当初、日本パラリンピック委員会が掲げた金メダル獲得目標は、10個でした。選手の皆さんは、誰もが本当に精一杯、勝つことを目標に頑張ってきたことと思います。金メダル獲得の数値目標というのは、果たして必要だったでしょうか。大会が終わって、金メダルの数は0に終わりましたが、選手の皆さん一人ひとりにそれぞれのドラマがあり、一つ一つの競技や試合に、感動がありました。ただ、大会を観戦していて、これは本当に仕方のないこととは思うのですが、競技種目ごとに障害の種類、部位、程度に従ってなされるクラス分けが細かく、なんだかわかりにくいと、私は感じてしまいました。そうは言っても、階級を統廃合してただ一つのメダルを争うことにすれば、障害部位での有利不利の問題が出てしまいます。そのため例えば陸上の100m競争には、男女あわせて10個以上の金メダルがあるそうです。はたして正確にいくつのクラスがあったのか、私はよくわかっていません。ですからパラリンピックこそ、メダルをなくしてしまえばいい、・・・とも言いきれないところが、難しい問題です。いっそいつかは、オリンピックもパラリンピックも、本当に一緒にしてしまう、ということは出来ないものでしょうか。それでは、障害のある選手はメダルを獲れなくなる、・・・と思いますよね。そうですね。でも、それでも一緒に、同じレースに出たり、出来る限り同じ予選を戦ったりするのです。そして、障害のクラスごとに記録賞みたいなメダルを授与するというのはどうでしょうか。例えばゴールボールには、完璧なアイマスクをした健常者チームも出場できるようにするというのは、やりすぎでしょうか。
  2011年の世界陸上に、両足義足のオスカー・ピストリウス選手が、南アフリカ代表として健常者とともに陸上男子400m走に出場しました。彼は当初、2008年北京オリンピックの出場を目指していましたが、国際陸上競技連盟(IAAF)が、カーボン製義足は競技規定に触れるとして出場を認めませんでした。しかし、スポーツ仲裁裁判所がIAAFの判断を覆し、ピストリウス選手は健常者のレースに出場できるようになったのです。(ただ、北京オリンピックには南アフリカ代表として国内予選で選ばれませんでした。)ピストリウス選手はその後、2012年のロンドン・オリンピックに出場し、陸上男子400mで準決勝まで進みました。そしてもちろん、同じ年のパラリンピックにも出場するのです。(しかし、ピストリウス選手はその後、殺人事件の容疑者として逮捕されてしまいます。南アフリカの英雄と言われた選手でしたが、転落の人生を辿ってしまうのでした。)今年のリオ・パラリンピックには、男子走り幅跳びT43/44(切断・機能)クラスに、マルクス・レームというドイツ人選手が出場しました。彼のベスト記録は8m40。自己ベストを出せばオリンピックでもメダルが狙える選手でした。右足に義足のブレードを付けたレーム選手は、リオ・オリンピックの参加標準記録8m15をクリアしていたのですが、IAAFは五輪出場の条件として、「義足が有利に働いていないことを証明せよ」をレーム選手に難題を突きつけたのです。それは、彼の努力への賞賛が、いつしか「テクニカル(道具)・ドーピング」という批判の声になっていたからでもありました。結局、レーム選手はリオ・オリンピックを断念し、パラリンピックに出場します。そして、8m21の記録で優勝します。これは、リオ・オリンピックの決勝なら5位に相当する記録でした。レーム選手の目標は、当然、東京オリンピック出場です。パラリンピックではなく、オリンピックです。2020年東京は、はたしてどのようにレーム選手を迎えるのでしょうか。
  リオ・オリンピックを観戦していて、ポーランドの卓球女子チームに、右腕前部のない選手がいることに気が付きました。ナタリア・パルティカ選手で、日本チームと熱戦を繰り広げたので、たいへん印象に残ったのです。彼女は、アテネ、北京のパラリンピックで、卓球女子シングルスの金メダルを獲得していた選手でした。そんな彼女の、リオ・オリンピックでの活躍が、障害者のオリンピック出場への扉を、どんどん大きく開いてくれるといいと思います。オリンピックで、義足の走り幅跳び選手が金メダルを獲っても、いいと、私は思います。
 ところで、パラリンピックには、聴覚障害者は出場しません。聴覚障害のあるアスリートには、別にデフリンピックという大会があるからです。また、知的障害のある人のためにはスペシャルオリンピックスという組織があり、世界大会を開催しています。一方で、パラリンピックでは、1998年の長野冬季大会で初めて知的障害者の参加が認められました。しかし、2000年のシドニー・パラリンピックで、バスケットボールのスペインチームが健常者を紛れこませて試合をしたという不正が発覚します。そのことにより、知的障害者は全ての種目でパラリンピック参加を認められなくなってしまうのでした。パラリンピックに、再び知的障害者が参加できることとなったのは、2012年のロンドン大会からです。そのようにして、障害のある競技者を取り巻く環境は、とても流動的です。パラリンピック、デフリンピック、スペシャルオリンピックスと、運営基盤の組織は別々で、将来統合されることは難しいでしょう。無理して一つの大会にすることは、それぞれの障害の特性からも難しく、分けて開催した方がスムーズな運営が出来るからです。それでも、4年に一度、一つの大運動会に、世界中から様々な人達が集まって、みんなで力と技を競い合えたら、そんなオリンピックが実現したら、なんだか素敵だなと思うのでした。

  今年の夏、相模原市の障害者施設で、入所者が刃物を持った男に襲われ、多数の死傷者が出るという事件がありました。逮捕された容疑者は、「障害者なんていなくなればいい」との発言をしていると報道されました。冒険学校の世話人会でも、事件のことを話題にし、率直な意見を語り合ったりしました。少し時間が経って私が思うことは、逮捕された男も、思想的な障害者ではないかということです。(語弊があるかもしれないので、もちろん犯行はたいへん非道で許されないことと思っています。)彼が、「障害者なんていなくなれば」と言うのなら、では残るのは、いったいどんな完璧な人なのでしょう。人は誰でも少しずつ、不完全であるように思います。(あぁこれも、語弊があるかもしれません。軽率な発言、すみません。)でも、少しずつ不完全だから、人は寄り添って、補い合って、育てたり助けたりし合いながら、生きているのではないでしょうか。その、生きている場所は、特別なグループに用意された、特別に区切られた場所ではなくて、今この私たちが生きているこの世界であると、私は思うのです。